「自分の本当の名前は南無阿弥陀仏だ」という表現について。私は「普通名詞の南無阿弥陀仏が固有名詞の南無阿弥陀仏に変わる」と言っている。世間では、名前というものが自分を表す指標になっている。固有名詞としての姓名だ。姓名がどういう理由で発案されたのかと言えば、どうしても天皇制にまで遡る。天皇が家臣にレッテルを貼り、分類しやすいように発案されたものが姓名らしい。だから天皇自身には姓名はない。自分はこの世のものではないから、自分をこの世の記号で表現はしない。だから他の者からレッテルを貼られることはない。名前とはあくまで天皇が下々のものを呼んで支配するための記号に過ぎない。つまり天皇は「絶対」であり、名前とは「相対」に名づけられるレッテルなのだ。
ジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくる「湯婆婆(ゆばあば)」は、主人公の「千尋(ちひろ)」から「尋」という字を奪って、「千(せん)」と一方的に命名する。あれは相手の名前を奪うことで相手を支配しようとする行為なのだ。ここにも「天皇制」が暗示されているようだ。「千尋」は「湯婆婆」から、「千(せん)!千(せん)!」と、何度も呼ばれているうちに本名である「千尋」を忘れかけていたと漏らす。他者からの命名にはマインドコントロールという魔力が潜んでいることを示している。ここに本当の名前を取り戻せというテーマがあるのではなかろうか。
まあそれはともかく、現代人も姓名を持っていて、それを自分のアイデンティティとしている。ところがここに大きな問題がある。姓名は自分という個人を表すための最終的な拠り所だが、この姓名を自分では名づけていないという矛盾だ。自分自身のかけがえのない名前であるにもかかわらず自分自身が付けはいないのだ。姓名は他者(両親など)によって個人に貼り付けられたレッテルである。他者から貼り付けられたレッテルを自分だと思っているのだから、何という錯覚だろうか。まあ、他者といっても近親者だろうから、人間界で「好ましい」と連想される名前を付けることになる。それが両親であれば、両親が「好ましい」と感じる名前を付けることになる。決して悪意をもって命名することはない。しかしそれがどんなに「好ましい」名前であっても、所詮、人間界のことに過ぎない。つまり、人間の「煩悩」から生み出された名前であることに変わりはない。たとえそれがどんなに「好ましい」名前であっても、他者が付けた名前では、究極的に自分が「これこそが自分の本当の名前だ」と感じられるものにはならないのではないか。自分に与えられた「お仕着せ」のようなもので、どうしてもこの「お仕着せ」と自分との間に摩擦が起きる。名前は、どうやっても着心地のよいものではない。それで自分の本当の名前を探すことになる。でも探してもなかなか見つからない。
「法名」が本当の名前だと言われたりもするが、親鸞も改名してるのだから、それが「本当の名前」だと思っていたかどうかは分からない。師・法然に出会って、最初は「綽空」と賜ったが、それを「親鸞」と改名してもらっている。いずれも「七高僧」の一字をもらった命名だ。それを後代、「観経軸」から「大経軸」へと課題の軸が変わったことを表す命名だと解釈してきた。ところが、「愚禿悲嘆述懐」と呼ばれている箇所では、「悲しきかな、愚禿鸞」(『教行信証』信巻)と表明し、「親」の字を省いている。別に名前の由来である「天親」を省いて、「曇鸞」一人に依拠したというわけでもないだろう。もはや、仏弟子として名前を名乗ることすらためらわれる精神状態を表しているのではないか。言わば、自分が「自分」を命名して表明できなくなっている。やはり「自分」とは自分を超えている現象であって、それを人間の自分が、この世の記号で命名することの傲慢さに気付いたのではないか。命名という行為は、この世を超えたものだけができることであって、この世の存在である自分が行ってしまえば「越権」だと感じられたのではないのか。だから親鸞の本心から言えば、「愚禿鸞」でも傲慢であり、本当は「命名不可能」となったのではないか。この世のものに命名できる力があるものは阿弥陀さんだけだと思っていたのだろう。しかし、ここで「阿弥陀さん」を持ち出すと、それが「天皇」と言い換えても意味が通じてしまうから注意が必要だ。私が使う「阿弥陀さん」は、徹底して「脱人格性」であることを断っておかなければならない。
それを断った上で先に進もう。「命名不可能」となった親鸞は、そこで生きる主体が転換してしまった。今までは「自分が生きる」と、すべてを「自分」から始まるように発想してきたが、それからは「阿弥陀さん」が主体で自分は客体にさせられたのだ。違った言い方をすれば、「自分から」という能動性が、すべて受動性に変わってしまった。だから、「生まれた」は「生まれさせられた」となり、「生きる」は「生かしめられる」になり、「考える」は「考えさせられる」になった。それを「自分が人生の主人公ではなく、阿弥陀さんが主人公になった」と言ってみた。
最初に書いた、「普通名詞の南無阿弥陀仏が固有名詞の南無阿弥陀仏に変わる」とは、主体の転換だった。それは「自分」という主語がなくなり、述語として生きることだ。主語としての自分がなくなることを仏教では「無我」と言ったのだろう。それで残った者は述語としての自分だ。もはや「自分」という言葉で結論づけられない何ものかだ。
つまり、それは阿弥陀さんからの受動性で生きる存在のことだ。それが本名だから「固有名詞の南無阿弥陀仏となる」のだ。人間が命名したり、発語できる南無阿弥陀仏ではなく、阿弥陀さんからの呼び声としての南無阿弥陀仏だ。これは阿弥陀さんだけが、「汝」として呼びかける〈ほんとう〉の声である。
しかし、みんなが南無阿弥陀仏だとすると、それぞれのひとを判別することができなくなるじゃないかと思われるかも知れない。そういう心配が起こるのは、南無阿弥陀仏を普通名詞だと思っているからだ。南無阿弥陀仏が自分の本当の名前になると、固有名詞に変わる。そして、南無阿弥陀仏が自分の本当の名前だと教えられると、腹の底から、そうだと頷くことができる。人間界の眼で見ると、それは「無名」と思われるかも知れない。個人を識別することができないのなら、それは「無名」と同じではないかと。「無名」という言い方で表現してもよいが、もう少し違った表現のほうが〈真実〉に近いと思う。「名前を必要としない」という言い方はどうだろうか。名前を必要としないほどに近いもの。親鸞に「親」の文字を省かせた力を突き詰めれば、名前の消滅であろう。自分が消えてなくなってしまう〈零度の存在〉だ。自分が消えてなくなってしまえば、その零度から今度は無限にあらゆるものが生まれ展開していく。南無で消えてしまい、阿弥陀で復活する。南無は自分という存在を〈零度〉にし消してしまう。消してしまう運動だ。ただしその運動はそれでお終いではない。その〈零度〉から無限に生まれてくる。阿弥陀さんが生まれてくる。つまり、主体も環境をも引っくるめた阿弥陀が噴出して展開してくる。こういう大スペクタクルを南無阿弥陀仏は引き起こしてくる。南無阿弥陀仏は「自分が」称えるものではなく、どこまでも阿弥陀さんが呼んで下さる本名だったのだ。