〈永遠の片思い〉

阿弥陀の「本願」を、私は「私を一方的に愛する〈永遠の片思い〉」と表現した。親鸞が、『仏説無量寿経』を「真実の教」と述べたのは、そういう意味があるからだ。「本願」は別名「誓願」と言われる。「誓願」とは「誓いを願としている」という意味だ。その誓いが48願として『仏説無量寿経』に展開されている。「誓願」は阿弥陀さんが一方的に誓っているという意味だから、人間には何も要求していない。阿弥陀さんは、「もし私があなたを救えないようなら、私は仏失格である。だからそうならないようにあなたを救いたい」と自分自身に誓っている。だから、救われる側の私には、一切の要求をしていない。まったく一方的に私を愛し続けている。阿弥陀さんは、「私の願いを聞いてくれたら救ってあげる」とか、「もし私の願いを受け取って、念仏してくれたら救ってあげる」とも言っていない。もし人間の行為が救いの条件になってしまえば、救いを決定するのは阿弥陀さんではなく、人間になってしまうからだ。
人間には無償の愛というものはない。子どもに対する母親の愛情は「無償の愛」だと言われるが、それは「我が子」であるから起こる愛情であり、「エゴイズム」という条件が付いたときに起こる愛情だ。しかし、阿弥陀さんの愛は無償の愛であり、無条件の愛であると言われる。だから〈永遠の片思い〉である。ただ、そんな愛を私は要求していないのだ。まったく自分勝手な誓いを立てているが、そんなものと自分は無関係であり、かえって迷惑だと思っている。私の欲しいのは、「私が思い描いた救い」だからだ。それを簡単に言えば、「ああなりたい、こうしたい」という状況変革の救いだ。それを否定するためか、『教行信証』(信巻)には「ただかの国土の受楽間(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ぜん。また当に往生を得ざるべきなり」と述べている。阿弥陀さんの国が、たえず楽しみを受けられる場所だと聞いて、楽をしたいからそこへ生まれたいと願っても、そんなひとは往生できないという意味だ。極楽とは、楽しみの極まりではなく、極まった楽、つまり究極的な楽のことだから、私たちが欲でもって描く「楽」を超えている。それでは〈永遠の片思い〉とは何か。それは、「間」のない愛だ。私たちが思い描く「愛」には「間」がある。つまり、男女とか親子とか、仏と人間とか。「間」がないと愛という感情は起こらない。ところが阿弥陀さんの愛には「間」がない。「間」がないということは、私と一心同体ということになる。阿弥陀さんが私の身体とひとつになって、私自身を担ってくれているということだ。もし苦しみがあれば、その苦しみを同感・同悲される。同感・同悲することで、苦しみの存在とひとつに成りたいと誓っているのだ。いや、もうすでにひとつに成っているのだ。阿弥陀さんは、あなたの身体と一体だと宣言しているのだ。それを「本願成就」という言葉に込めている。
阿弥陀さんは私の身体なのだから、痛みも悲しみも、阿弥陀さんが痛いから私が痛むのであり、阿弥陀さんが悲しいから、私が悲しむのだろう。