先日、「自分たちは幸運にも、真宗の教えに遇えたけれども、遇えないひとたちがたくさんいるのは可哀想だ」という発言を耳にした。その時、そういう発言をしたひとのこころはどうなっているのだろうか、と思ってしまった。つまり自分たちは真宗の教えの内部にあって、まだ出会えていないひとはその外にいるという発想だ。確かに、「幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや」(『歎異抄』序)とか、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『教行信証』総序)と遇法の喜びを述べるシーンもある。それだからと言って、真宗に出遇えていないひとを可哀想だとは思わない。そんな余計なことを考える余裕はないからだ。遇法の喜びを、ほんとうに知るひとは、仏法の劇薬性をよく心得ているひとだ。いままで何の問題も感じることなく幸せに生きてきたひとが真宗の教えに触れたために、大変な苦労をしいられることになるかもしれないのだ。専修学院でよく耳にしたのは、「真宗に出遭わなければ、こんなに苦労をすることもなかったのに」である。だから、真宗に出遇えないことが可哀想だなどとは言い切れない。かえって、可哀想だと思っているひと自身はどんな真宗に出遭っているのかと訝しく感じてしまう。たとえ自分が真宗に出遇えてよかっと思ったとしても、その「よかった」という思いを他者に振り向けて、「彼らは可哀想だ」という思いにはなり得ない。さらにその「よかった」という思いの底を追求し、破っていくように真宗は仕向けてくるものだ。
しかしそれではなぜ真宗は「表現」という行為をするのかと問われた。教団には「布教」や「教化」という言葉があるが、それは他者に向かって啓蒙・教育するということではないのか、と。まあそのことに対するいろいろな考えもあるが、煎じ詰めれば、信仰表現は、そうせざるを得ないからそうしているだけのことなのだ。阿弥陀さん自身が、そういう表現を望んでおられるから、その促しによって表現が生まれるだけのことだ。だから、表現されたものが他者にとって毒となるか薬となるかは分からない。曽我量深先生は「回向表現」という言葉で語られた。「表現することは阿弥陀さんからの回向である」という意味だろう。だから、自分に表現の源泉があるわけではない。向こうが要求するから出てくるだけで、自分に表現の必然性があるわけではない。いわば「詩的表現」が信仰表現の原像である。だから表現したことで、それがどう評価されるのかは別次元の話なのだ。つまり信仰者は、絶対(私の場合は阿弥陀さん)と対話することを究極のこととしている生き物なのだ。だからと言って、人間界にとって意味のなさないことを表現しているわけではない。信仰は言葉を超えているが、それをあえて言葉化することで人間界にアースを築くのだ。この超言語と言語化とが火花を散らす。これが信仰表現の醍醐味なのである。それで仏教の経典群はポエム(偈文)が核になって構成されているわけである。