〈一人一世界〉あれこれ

〈一人一世界〉となると、一人に一つの世界があるということだから、それでは世界はバラバラにならないかと問われた。そう質問したひとは、世界はひとつでなければならない、ひとつであってほしいと思っておられるようだ。しかし、〈真実〉はどっちかと問えば、バラバラなのだ。もともとバラバラだから、バラバラという言う必要もないものなのだ。バラバラが本質と聞くと、私は何かホッとするものを感じる。それは「自分の感じ方や、自分の存在が異常ではない」と感じられるからだろう。「異常ではない」ということでホッとするのは、根強く「世界はひとつだ」という観念に洗脳されていることの証明だ。どうもこれは「私」という自我意識が生まれることで、ひとつのパースペクティブを得たことから発生するようだ。自分の眼は、つねに外界を見るようにできている。この眼を通して世界を得たのだ。身体に穴が空いていて、そこに眼という器官が付いていて、外界を見る。眼は眼がはまっている頭蓋骨の内部は見ることができない。頭蓋骨の中は闇である。身体内部も見ることができないから闇だ。唯一、眼という器官を通してしか外界が成り立たない。認知科学では、「目に何かが映っているとき、カメラのフィルムに比すべき網膜に像が映っているわけであるが、我々は網膜に像が映っているとは認知せず、その像の元の物が外界に存在しているように認知する。」(国広哲弥『言語』vol18/1989年)と「見る」ことを分析している。器官を仏教では「根(こん)」と言い、「機能」の意味に解している。つまり「目が見る」のではなく、「目で見る」わけだ。養老孟司の『唯脳論』でも言われるように、目は器官であり、映像は脳内にあると。私は幼少期に戻ることができないから、想像するしかないのだが、おそらく赤ん坊のころは目に見えていた像は曖昧なものだったのだろう。やがて「鏡像段階」を経て、世界が切り分けられていき「あれ」と「これ」の違いが生まれ、やがて「自分」という意識が強固に出来上がっていく。余談だが、「私」という漢字の成り立ちは、「禾+ム」だが、「禾」はもちろん「稲」のことだが、「ム」はもともと「口」の形だったそうだ。「口」とは「囲む」の意味で、「私」とは「かこって自分のものにしたいね」の意味で、角川の『新字源』の「私」の第1番目に出ている意味が「いね」だったのには驚いた。
だから、この世界が「自分の世界」と感じる大分前から、世界を身体化してきたようだ。もはや、「自分の」という意識なしに「世界」は、眼でみたままの世界だと思い込んでいる。「自分のもの」という意識がはたらいていることすら感じることもなく、私たちは「世界」を手に入れている。本当は「自分のもの」という意識なくしては「世界」は世界として成り立っていないのだ。「無色透明」な「世界」は、与えられていないのだった。「貪欲(とんよく)」というむさぼりの意識がないと「世界」はなかった。ヘレンケラーが「世界」を得たのは、「W・A・T・E・R」という記号が身体感覚と共に「世界」という意味空間を把握したときだ。「W・A・T・E・R」は「水」のことだが、この文字列がひとつのまとまった意味空間内にはめ込まれたとき、「水」と「水以外」つまり「世界」と切り離され、「世界」を対峙化できたのだ。それは人間にとっては喜ぶべきことだが、実は「人間的意味空間」を得たということに過ぎない。他の生物にとっての「世界」は人間とは違っているだろうし、もっと突き詰めれば〈一人一世界〉に違いない。これは人間の有りようとしての「本来性」である。この〈一人一世界〉という言葉を聞いたときに感じる各人の反応は様々だ。「絶対の孤独」、「寂しい」、「暗い」、「冷たい」、「わかり合えない」などの情感を感じるひともある。
「一人一世界なんだから、俺のことはお前には決して分からないんだ。話しても無駄だ」と自分の城に閉じこもる理解もあった。しかし、そういう情感と〈一人一世界〉は無関係だ。これは「本来性」だから、もともと本来そうなっているという程度のものだからだ。この〈一人一世界〉にどういう反応を示すかということで、そのひとが生きている「世界認識」があぶり出される。「一人一世界でよいとなったら他者と共感するとか、他者を理解することが出来ないのではないか」という反応もある。それは言わば「倫理」の問題で、共感や他者理解が要求される場面も、人間には必要だ。ただそれだけでは済まない問題も人間は持っている。「人間は必ず死ぬことを知っている。でも、なぜ他ならぬこの私が死ぬのか。なぜ死ぬのに生きねばならないのか。」こういう実存の問題には、「倫理」は無力だ。これは「実存的自己認識」の問題だから、「永遠」とか「絶対」とか「究極」というものとの対話から生まれてくるものだ。仏教はそれを「法dharma」とか「法性」「縁起」などという言葉で示した。この対話の歴史が「経典」群を生んだのだ。「如是我聞」という受け止めが「経典」そのものだ。「我」を抜きにしたとこには何もない。「我」が感得した意味空間なのだが、それが普遍性を持っているとき「経」に値する。「実存的自己認識」が成り立つためには「法」との徹底した対話がなければならない。それが縦軸として確立されたならば、そこに横軸が生まれる。横軸とは「自己と他者」の意味空間だ。それを「社会性」と言ってもよいだろう。縦軸は「なぜ生きるか」という問題の意味空間、横軸は「いかに生きるか」という問題の意味空間。この両方を持って生きているのが人間だ。
 〈一人一世界〉が基軸となれば、すべてはその中の現象となる。常識的な世界観だと、自分は「日本の中の一人」とか、「教団の中の一人」となるが、〈一人一世界〉だと、この〈一人一世界〉の中の「日本」であり、〈一人一世界〉の中の「教団」ということになる。〈一人一世界〉の内部で起こった現象のすべてが、阿弥陀さんを暗示する「指」だから、まだまだ自分にとっては未知未開なる世界である。