言語化した途端にすり抜けていく

なぜ親鸞の表現が難しく面倒なのかと言えば、それはそれを読もうとする「自己」が難しく面倒だからの一言に尽きる。自分が「自己」を把握しようとしたら、これほど難しいことはない。まずもって、この「自己」が不可解なるものだという認識が、仏法を求めるための大前提なのだ。禅でも「己事究明」と言われるように、「自己」が「なぜ存在し、何のために生きるのか」ということが根源的問いである。この「自己」存在の不可解という絶壁を前にして、ようやく親鸞の言葉が届いてくるのだ。
コロナの蔓延ということがあって、人間が恐ろしくストイックになっている。中世ヨーロッパでペストが蔓延したとき、教会は「メメント・モリ」(死を思え)と言ったという。それは死を無闇に恐れるのではなく、冷静になって死を対象化して見つめてみようという問題提起だ。コロナも緊急の課題なのだが、「自己」存在の不可解という絶壁を前にすると、緊急でない場面は一つもない。この世には「まさか」という「坂」があると言われるが、それはある日どこからかやってくるものではなく、ごく当たり前の日常が「まさか」という大地の上に成り立っているということだ。
この「ごく当たり前」に見えてしまう「いま・ここ・わたし」が、〈ほんとう〉は「ごく当たり前」でない。原始未開であり、不可思議そのもののはずなのだ。この原始未開が「飼い馴らされた日常」に見えてしまうのは、「自見の覚悟」(歎異抄)があるからだ。「飛行機が空から落ちてくるのではないか」とか、「外は何がいるか分からない危ない世界だから自室に閉じこもって外へ出ない」という感覚の持ち主を小馬鹿にしてしまうが、私よりもそのひとのほうが〈ほんとう〉を直感しているひとなのだろう。以前、家に住んでいた猫(プチ子)は、決して外へ出ようとはしなかった。外は危険だと知っていたから。窓から外を覗いてはオドオドしている姿を笑ったが、彼女のほうが〈ほんとう〉を肌で直感していたのだ。まあそれも突き詰めれば、「内」は安全、「外」は危険と分別しているのだから、同じように「自見の覚悟」で受け取っていることになる。その「内」は安全と感じていることも、〈ほんとう〉は原始未開であり、不可思議そのものだと徹底して批判してくるのが〈真宗〉というものだ。つまり、自分の思いを超えた世界が展開しているのだと。この世界を象徴的に「浄土」とか「阿弥陀仏国」とか経典は語ってきた。だから、「阿弥陀仏、ここを去りたもうこと遠からず」(阿弥陀仏、去此不遠)と『観無量寿経』はメタファーで語っている。しかし『大無量寿経』には「此を去ること十万億の刹なり」と書かれている。どんな単位なのかは不明だが、遙かに遠いというイメージだ。この矛盾した表現から何をくみ取るかだ。私は浄土は遠いが、〈ほんとう〉は考える以上に近いことを語っていると思う。どこまでも浄土は、遠い。「遠い」ということは、決して「いま・ここ」ではないということだ。「やがて」と考えることが遠さを生む。それを打ち破るようにして、「ここを去りたもうこと遠からず」と迫ってくる。眼で見るには距離が必要だし、意識で考えるには、「対象化」という操作が必要だ。それが「自見の覚悟」なのだが、それを解体するはたらきが、どうも〈真宗〉というものらしい。
解体されて何が残るのだろうか。おそらく二つの世界が、そこに現れる。ひとつは「自見の覚悟の世界」、ふたつには「阿弥陀界」だ。まあふたつに分けるとふたつの世界があるように思ってしまうが、そうではない。「自見の覚悟の世界」と、それを虚偽として批判してくる世界だ。それを「世界」と表現してはダメなのかもしれない。「世界」と言えば、「世界」という固定観念で人間は受け取ってしまうから。言いたいことは、人間が「原始未開」とか「不可思議」と命名した途端にすり抜けていくもの。それほど「純粋」なもの。それを人間に開示しようと迫ってくるもの。それが〈真宗〉という運動なのだ。