信心は空気だ

昨日は、一期一会のBサロンだった。毎回のことだが、事前申し込みをしていないから、誰が見えるかわからない。会場の部屋には最初、誰もいない。ガランとしている。そして時間になると三々五々、ひとが集まってくる。16時頃から輪読が始まり。18時頃から饗宴になり、20時ころには終了し、再び皆さんは自分の生活の場へと帰っていき、この部屋はガランとした空間に戻る。「如より生まれ如に帰る」という言葉が思い出された。つどいは不思議だ。
輪読とは、皆で一冊の本のあるページを読むのだが、誰かが代表して本を読んでいるとき、皆はそのページを目で追っている。目で見る文字と、音声で聞く声とが頭の中で融合し、各人のこころの中で様々な意味の創造が起こる。いまは『救済詩抄』を少しずつ読んでいるから、著者である私もその中にあるのだが、自分がかつて書いたものであっても文字は自分を超えているから、改めて出会うような感じにもなる。輪読は共同でおこなう行為のように見えて、実際は個人が内面に降りていく孤独な作業だ。皆さん、決して同じようには考えていないので、様々な意味の乱反射が起こっているに違いない。この本は、1ページで読み切りになっているから、誰かが読み終わると沈黙がやってくる。各人が、再度、その箇所を咀嚼するように黙読するからだ。それで誰かが「いいですか?」と声を発し、疑問や不審や感想を口走る。この声に遮られて、皆さんはこころの深海から浮上してきて、他の人の声に耳をそばだてる。今まで知らなかった知識を知るということも確かにあるのだが、それだけではない。他の人が疑問に思っても、自分には、それが疑問とは感じられなかったのだから。こうやって他者の頭をも借りて、自分が考えるという「修行」を深めていく。『救済詩抄 第2巻』にも、時々寄り道する。しかし、この表紙のデザインは何だろうという意見もあった。人物のようなものの、お腹の部分がドーナツの穴のように空いている。これが〈真宗〉でいうところの「信」のイメージなのだ。「一般的」な「信」は、「自分が信ずる」というコードで使われる。つまり主語は「自分」なのだ。しかし親鸞が直感したであろう「信」は、その「自分が」が空洞になっている。自分には「信ずる」という経験は成り立たないのだ。成り立つものだと思って「信じよう」としてきたが、「信じよう」としている限り、それは「信」と一つにはなっていない。「信」が目的になってしまえば、〈いま〉信じていることにはならない。これは親鸞も通った信仰の道だった。山には「けもの道」というのがあるが、これは信仰の山に入るための「けもの道」だ。親鸞が感じた疑問は、六百年程前の曇鸞が感じていた。この疑問は自分個人のものではなく、信仰に生きようとしるものが必ず通る信仰の関門だ。「七地沈空」とも言われる関門だ。これは決して通過して、過去のこととして済ますことができない。関門は「門」としてつねに自分の前にある。ただ親鸞には「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(歎異抄第9条)と言って「七地沈空」が「門」として見えている。親鸞が「門」を見上げている。ふとヨコを見ると、そこには曇鸞も唯円も立っている。「七高僧」も「釈迦」も立っていて、自分もそこに立っている。「信じられない」のは、自分の経験不足、能力不足だと考えていた。つまり自分のほうに落ち度があると。そうやって考えること自体が、「傲慢」だと教えられた。そうして「門」が「門」として成り立った。「門」があっても、「門」の中には入れない。いつからこの「門」の前にたたずんでいたのだろうかと思えば、これは「弥陀成仏のこのかた」からだった。そこから一度も、動いてはいなかった。こうやって「通時的時間」を超えていく。
このようにして「信心」は人間のする「経験」から解放された。だから「信心」は「信ずる」とか「信じた」という経験の内部には収まらない。「信心」とは空気であり宇宙である。誰もが吸っている空気のようなものだ。親鸞はそれを「如来回向の信」と言って、自分から信ずるものではなく、如来から信じられることだと表現した。如来から信じられているということも、人間には感知することができない。ただ、「自分が」と発想する基点がひっくり返されるだけだ。「どんなことが起こっても如来に信じられているのだ」と思ったとしても、それは自分がそのように受け取って安心しているだけのことだ。しかし人間には「自分が」と考えざるを得ないのだが、それはそうなのだが、それは〈真実〉ではないと教えられる。「そらごとたわごとまことあることなし」だ。