〈真実〉の教えなどはない

どこかの会場で私は「お話」をしていた。いろいろとお話したところで、「〈真実〉の教えなどはない」と口走っていた。それを聞いた聴衆の男性がムックと立ち上がり、私の話を遮って発言した。「真実の教えがないなどとは受け入れられない」と。私はそれに応答して「〈真実〉の教えとか、〈真実〉の道理とか、〈真実〉の仏法とか、そういうものがあると思っているんですか。あなたが〈真実〉だと思っているものは何ですか。」と言った。そこでお話の時間はタイムアップとなり、休憩時間に入った。ところがその男性は私のところへ近寄ってきて、まだまだ話したいというふうだった。私は椅子を車座にして、即席の座談会セッティングをしつらえた。これは面白いことになってきた。これが本当の座談会だと内心思った。その辺りで、夢が覚めた。今までのシーンは夢の一部だ。
「お話」の夢はよく見るのだが、おそらくこれは起きる寸前のものだろう。記憶が生々しい。男性が思わず立ち上がったとき、これは『大無量寿経』の「尊者阿難座よりたち」(大経和讃・原文は「尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち」)だと思った。阿難も、この男性も、思わず立ち上がったに違いない。それは言葉にすれば「疑問」という一語で終止符を打たれるが、本当はもっと複雑なものだ。「疑問」にも、それは何だろう、それは本当だろうか、というのもあるが、思わず立ち上がるほとの疑問というのもある。これは何度も話したことだが、私の話を聞いているうちに、段々と腹が立ってきたとおっしゃった方もいて、こういう疑問の形もある。
おそらくその男性は、「真実の教 浄土真宗」と『教行信証』に親鸞も書かれているのだし、「お話」も「真実」だから話しているのではないかと思われたのだろう。これらが「真実」ではないなどとは受け入れられないと思っていたのだろう。しかし、その「真実」とは、その男性の「固定観念」に過ぎない。たとえ「真実」という言葉があるからといって、それが、親鸞の受け取っていた「真実」であるかどうかは分からない。その男性は「真実」という言葉に、ひかりを感じていたのだろう。だからお話を聞こうと身体が動いたのだろう。それもそのひとの受け取った固定観念に、彼自身が反応しているだけである。阿難も強固な固定観念があって、それが立ち上がるという行為を促したのに違いない。つまりは、自分と自分が相撲を取っているというわけだ。
だから、私が「〈真実〉の教えなどない」と言ったとき、自分の好奇心・求道心が傷つけれれたように感じたのかも知れない。しかし、本当は、どんなに素晴らしい教えだと思ったしても、それはそのひとが素晴らしいと感じたということでしかない。本当の〈真実〉という言い方もおかしいのだが、本当の〈真実〉などというものは誰にもつかむことはできない。だから絶望するということではない。つかむことが出来ないから、解放感があるのだ。〈真実〉を知ってしまったら、〈真実〉を知ったような顔をして生きなければならないから、とても窮屈だ。人間には知り得ないからこそよいのだ。でも、そのひとが、「そこに〈真実〉あり」と直感したことは世界的なことであり、否定も肯定もできない現事実である。親鸞は、絶界の〈一人一世界〉の中で「大無量寿経、真実の教これなり」と叫んだだけだ。別にそれは『大無量寿経』が、誰においても成り立つ客観的な真実を述べているという意味ではない。〈一人一世界〉の中での叫びである。その叫びを聞いて、私の中に何が起こるか。それは前人未到の〈一人一世界〉の中での勝負である。この世には、私一人以外は「生きて」いないのだから。