お盆は恐ろしい

東京のお盆は終わったが、地方のお盆はこれからだ。お盆になると、お盆の迎え方とか仏壇の飾り方とかお参りの仕方とか、質問が来る。そうすると、浄土真宗では、「迎え火・送り火」は焚きませんとか、「精霊棚」は作りません、茄子や胡瓜でウマや牛は作りませんとか、つまり、一般的にやっていることをことごとく否定することになる。そうなると門徒は「そんなら、何にもしなくていいんですか?」とか、「形式張らない宗派でよかったです。」とか、「門徒もの知らずで助かりました」などと反応する。
そういう反応をいただいたとき、「ああああ」と何とも言えない気持ちになる。この感じ方は真宗の坊さんならば、普遍的に誰しもが感じる感じ方だ。質問した門徒は、「これでよかったのだ」という安心感を得ているのだから、有り難いことではある。確かに有り難いので、それを否定するつもりは毛頭無い。しかし、真宗の核心に触れていないので、困ったものだとも感じるのだ。なぜ「送り火・迎え火・送り火」を焚かないのか、なぜ「精霊棚」を作らないのかという理由が、本人の内面で十分には納得されていないからだ。
結論を言えば、「毎日がお盆」というのが真宗の受け止めだ。毎日がお盆だから、取り立てて、お盆期間中だけ特別なことをするのではない。「毎日がお盆」というのは、毎日、「迎え火・送り火」を焚くということでも、毎日「精霊棚」を作るということでもない。四六時中、仏さんと問答することだ。仏さんとは亡くなった個人である場合もあるし、仏法そのものである場合もある。形式としては、仏壇に打敷を掛け、切り子灯籠を飾り、お花や線香を灯し、正信偈などのお勤めをするということになる。形式としては、それが正しいのだが、それをしたから正解というわけでもない。形式は外面的なことだが、内面で仏さんと対話できているかが問われる。亡き人は「諸仏」であり家来みたいなものだ。仏さまの王様は「阿弥陀さん」である。「諸仏」は阿弥陀さんの救いの仕事を具体的に手足となって助ける役割を担う。親鸞は亡くなられた師・法然を「阿弥陀如来の化身」と受け取って、生涯に渡って対話された。故人を縁として、阿弥陀さんと対話されたのだ。
お盆は故人を想う期間だが、どのように想ったとしても、それは究極的には「他人事(ひとごと)」なのだ。身内を失って寂しいという思いも、それは溺愛していたおもちゃを一気に取り上げられて悲しいのと同じだ。自分にとって、最愛のひとを失ったということは、「自分にとって都合が良く、心地よい人間を失ってむさぼれなくなった」ということなのだ。この悲しみは、亡くなった故人とは無関係だ。故人がそのことをどう受け取ったかということは確かめようがない。ただ「自分が悲しい」というだけのことだ。それもこれも、自分が自分自身の死というものをどう受け止めるかという一点に問題の焦点がある。蓮如も「われやさき、ひとやさき」(白骨の御文)と言っているが、悲しみは「ひとやさき」にしか起きない。「われやさき」は阿弥陀さんといのちのやりとりをせよということだ。私を救えるかどうかが阿弥陀さんの死活問題なのだ。だから、こっちもそれが死活問題にまで熟さなければならない。〈真宗〉は相手を変える教えでなく、自分自分を変革することだから、一番大変な教えなのだ。決して手を抜くことができない。それほど大変な仕事がお盆には待っている。本当にやらなければならない仕事がやまほどある。「何もしない宗派だから、楽ちんだ」などとは言えない。そう想うと、お盆とは実に恐ろしい期間なのだ。