二つの時間

阿弥陀さんの時間は、「二度と同じ事の繰り返しのない時間」。まさに「一期一会の時間」だ。
人間の時間は、「同じ事の繰り返しの時間」。まさに「当たり前の時間」だ。どっちが〈ほんとう〉の時間かと問われれば、阿弥陀さんの時間だ。考えてみれば、すぐに分かる。朝ご飯を、毎日食べているが、そのご飯は「同じご飯」ではない。「同じように見えているだけ」で、〈ほんとう〉はすべてが違う。「同じご飯」を食べてはいない。昨日のご飯は、もうお腹の中に入ってしまっているから、「同じご飯」を食べることは不可能だ。毎回の朝ご飯が、最初で最後のご飯だ。阿弥陀さんは、この「一期一会」が〈ほんとう〉の時間だと訴える。〈ほんとう〉なのだが、自分はこの時間を認めない。どうしても「同じ事の繰り返しの時間」を望んでしまう。だから「無病息災・家内安全」を望んでしまう。〈真宗〉というアブノーマルに犯されると、これをあざ笑ってしまうが、本当は、これを否定できる人間はいない。「同じ事の繰り返しの時間」を欲するというよりも、「一期一会の時間」を拒絶するというのが真実だろう。人間は、それを見たくないし、見えたとしても、それを「嘘だ」と拒絶する。まさに「貪欲の罪」だ。〈真実〉に背を向け、〈真実〉を拒絶し、〈真実〉を抹殺しようとする罪だ。ただ、〈真実〉がどっちで「嘘」がどっちかということだけが分かるだけだ。
この〈真実〉の前に立ち尽くしている。いつから立ち尽くしているのかと言えば、それは「いつから」と、人間が決めることができない。人間の言い方に押し込めれば、「永遠から」だ。親鸞の言い方だと「弥陀成仏のこのかたは」からだ。しかし、人間の日常は、「同じ事の繰り返しの時間」だから、それに支配されている。たまに、「一期一会の時間」が〈真実〉だと顔を覗かせるときがある。この「たまに」で、ようやく覚醒する。息の詰まるような「同じ事の繰り返しの時間」の中にいて、本当に「たまに」息が出来る。若い頃、海で「素潜り」をした経験がある。海は、孤独な世界だ。潜るときは、隣に人がいても、やはり「独り」だ。潜る前には、胸いっぱいに息を吸い込み、お腹をくの字にへこませて一気に潜水する。海は美しいから、ドンドンと深くへ潜りたくなる。ただどの辺りで浮上しないと、海面まで息が持たないかを計算しながら。それが誤算をしたことがあった。いくら海面へ浮上して藻掻いても、海面が見えてこないのだ。もう限界だ。生理的反応で、息をしてしまう。そうなると海水が喉に入ってくる。これは危ない、もしかしたら溺れるかも知れないと焦った。ようやく海面にたどり着き、海水をゲホゲホと吐きながら息をすることができた。生きていた。生きていることは、奇蹟だ。何でもないとか、平凡だと思ってしまうが、いのちの〈真実〉は、どんな状況を生きていたとしても、それは奇蹟なのだ。日常はまさに、海中のようなものだ。海中から水面へと顔を出して、辛うじて〈真実〉の呼吸ができた。悲しいことに私は、〈真実〉を生きることができない。〈真実〉は決して「日常」に飲み込まれないから。ただ、何が「嘘」で、何が〈真実〉かということだけを知っているのだ。この「知っている」という言い方もメタファーなのだが。