あくびの教え

私の上に起こったことは、誰の上にも起こること。私に起こったことは「特殊」だが、誰の上にも起こることは「普遍」である。お勤めをしていて、そのときは「正信偈」を大きな声でとなえているとき、思わずあくびが襲ってきて、あくびをしてしまった。これは法事の読経の時にも起こる。蓮如さんが「神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ」(御一代記聞書138)と誡めているのもわかる。しかし、誡められても起こってくるものは厳粛な宿業の事実だから、それを打ち消すことはできない。だから法話で、「正信偈」をあげているときにあくびが出たと公表した。こんなことをわざわざ言う必要はないのだ。言わなければ誰にも分からないことなのだから。しかし、公表してしまった。公表したのは、これが仏法の出来事だからだ。そうせざるを得ない事実は厳粛だ。これは私一人の上に起こったことだが、普遍的なことでもある。まったく同じということはあり得ないのだが、もし私の宿業を私と同じように生きるひとがいたとしたら、同じようにあくびが出るはずだ。だからこれは仏法の出来事なのだ。あくびが出るということは、確かに馴れてしまっているという宿業の現れだ。あくびを出さないように努力しろという批判も分からないではない。そうしたいひとはそうすればよい。初心の人はあくびが出るなどという余裕はない。初心のひとと私の宿業は違うのだから、当然だ。「坊さん」という業を生きているひとには理解してもらえることだと思う。真夏の本堂で阿弥陀経をあげていると、ものすごく眠くなることがある。側に布団を敷いてくれと思うほどだ。読経は催眠効果を催すのだ。意識が表層から深層へ行こうとするから。お経をあげていて眠くなるとは、精神がたるんでいるからではないかと、人間界では叱咤されるが、仏法界では宿業因縁の厳粛な事実だ。つまり仏法の出来事なのだ。尊ぶべき出来事なのだ。