まっさん塾

7月7日に第10回の「まっさん塾」が開催された。参加者は十数名。山陽地域の豪雨で、新幹線の運行が危ぶまれていたが、時間通りに桑名へ到着することができた。まだまだコロナの不安があり、駅もそうだが町中にも人はまばらに感じた。お話の中で、拙寺の寺報「よびごえ」129号にも触れた。例の山形の女性(住職)のお話。旦那さんが雪下ろしをしていて、ふと下を見たら、彼女が泣いていたと。それで旦那さんが屋根から降りて彼女に近寄って、理由を聞くと、彼女は「自分と結婚しなければこんな苦労をすることはなかったのに、申し訳ない」と泣いていたというのだ。私はここに「結婚」という生活の中に〈真宗〉が表現された姿を見たと書いた。しかし、参加者の一人から、ああいうふうに書かれると、ああしなければいけない、ああなるのが真宗の理想なんだと思わされてしまうではないですか、と意見をもらった。私は、極めて個人的な感想として、そのように感じたということを述べただけだが、そのひとは「理想論」を語ったように受け取られたようだ。表現された文字は「死体」である。それをどう受け取るかは、そのひとの尊厳にまかされている。
讃岐の妙好人・庄松さんは「お前はお前の持ったまま暮らせ、おらはおらだけで暮らす」と言ったではないか。ある人が庄松に「如来の御恩ということが、真実に領解できたら、御恩御恩の日暮らしができますか」と聞いた。すると庄松は「おらはそんな難しいことは知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ、おらはおらだけで暮らす」と答えたそうだ。だから、彼女の話をどう受け取るかは、「面々のおんはからい」ということにまかされている。だから、あれを「理想論」と受け取るのもよし、そうでないと受け取るのもよしだ。自分のこころを振り返れば、連れ合いに対して「済まない」と思うこともあるけれども、そうではないときもある。もしそう受け取っているなら、そう受け取っていればよいではないか。そうやって対話していくのは阿弥陀さんだ。だから阿弥陀さんとだけ対話していけばよい。私の表現と対話してもラチがあかない。でも、私にはあそこに〈真宗〉が顔をのぞかせたと受け取られただけの話だ。親鸞の「女犯偈」(六角堂夢想偈)に「犯」という文字が使われていることと通底している。だから〈真宗〉が結婚という人間関係を取ったとき、そこに現れてくる普遍的な現象なのだと思った。さて、自分の結婚生活ではどうかということは、阿弥陀さんとの相談なしには答えられない。謝罪の気持ちを感じることもあるし、そうではないときもあるし、相手が悪いと感じることもあるのだ。その全体が阿弥陀さんを仲人にした関係になっているかだけが問題なのだ。
翌日は、西田真因先生ご夫妻と東本願寺(御影堂)でお会いした。京都駅にも人が少なかったには驚いた。こんなに空いている京都駅を見たことがなかった。一昨日、木名瀬さんは嵐山の渡月橋へ行ったが、一人もひとがいなかったので、その写真を記念に撮ったそうだ。千畳敷と言われる東本願寺の御影堂にも、まったくひとがいなかった。いないのは寂しいが、この空間を独り占めできる喜びも感じた。親鸞聖人と一対一の対話ゾーンに入ることが出来た。御影堂は親鸞と自己が対話する空間だ。阿弥陀堂はその対話を成り立たせる場である。豪雨で、遅れの出ていた新幹線に乗り日常へと戻った。