『相互救済物語』完成!

7月5日に『相互救済物語』の印刷が出来上がってきた。まあ内容はいつものことだが、題名だけが突出しているように感じる。この題名が私に、また「反問」してくる。「相互救済物語」とはどういうことかと。私が銘々したのだから、内容が分かっているはずなのに、完全には分かっていない。この題名をご覧になった方々も、「これはどういう意味だ」とお思いだと思う。
これも「〈真実〉のデッサン」だ。強烈なひかりが当たっている部分は表現することができない。表現できるのは影の部分だけだ。だからデッサンなのだ。そのデッサンは「死体」だ。文字は決して動くことがない。その文字を読んで、「死体」が動き出すことを経験する。それは人間という不思議な生き物の内面で。内面も表層と深層がある。その内面の深層のほうで感じるだけで、表層のところではない。だから、仏法を聞いたとき、感動ということが起こるのだが、それを言葉で表現することができない。よく聴聞に言って帰ってくると家人に聞かれるらしい。「今日のお話はどうだった」と。しかし、その問いにうまく答えられない。いろんなことを思うのだが、それをうまく伝えられなくてもどかしい。そして今度は「家人に聞かれたときに、うまく答えられるように聴聞しよう」と考える。メモに取ったりする。この聞き方も大切だ。「得手に聞く」こと、つまり分かったようにしていることが反問されるからだ。しかし、聴聞の現場で感じた感動は決して他者に伝えることができない。それは私たちのこころの深層で起こっていることだから。だから、昔から聴聞の現場に足を運べと言われてきたのだ。話し手も聞き手も、一緒に、一歩ずつ「深層の〈真実〉」への階段を降りていくのだ。親鸞のデッサン表現は「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」だ。「弥陀成仏」とは時間と空間を超えている。それが〈いま〉と直結し、〈いま〉の内容になってくる。これが〈真実〉=「法身の光輪」となって「世の盲冥を照らす」のだという。世の闇を照らして明るくなったということではない。〈いま〉初めて、闇が闇であったと照らし出されたという意味だ。闇以外に、ひかりははたらかない。闇を蹴散らすひかりではなく、闇とどこまでも同化するひかりである。
山形の森さんから、「よびごえ」をある人に送って欲しいとメールをいただいた。森さんはこれをコピーして手渡されている人たちがいた。そのひとりがまた「よびごえ」を読んでこころが動かされたという、これを仲間の人たちと聞法の材料にしたいという。それで10部送ってほしいとあった。私はこういうものを「地下のサンガ」とか「地下茎のサンガ」と呼んでいる。表層には「役職」とか「立場」とか「教団」とか様々なことがある。しかし、その深層ではつながっていて、これが表層のサンガを辛うじて支えているのだ。こういう「地下のサンガ」だけが信頼できる。〈真実〉とは「面々のおんはからい」の深層だけで響くものだ。