煩悩深重

無色透明に見えている私の眼。あらゆるものが、そのままの色に見えている。隣の五階建ての団地の壁面は、クリーム色に見えている。公園の青桐の葉っぱは緑色に見えている。街路灯の一番てっぺんに着いている笠は青色に見えている。眼で見たとおりの色が見えていると、私は思っている。まあそんなことも意識することもなく、漠然と、そうだと思っている。その無色透明が、実は「煩悩深重」が診せている景色だったとは。色が色として私が知ることができるようになるためには、「差異」を認知しなければならない。つまり、あれとこれが違う色だと認知されなければ、色を色として私は知ることができない。この「差異」を知ることが、世界を認知し把握し支配する煩悩だったとは。煩悩は、無色透明に色を知っているのではない。そこには「自分にとって」という自我性が裏打ちされている。「自分にとって」という前提のないところに認知ははたらかない。眼は、自分からはるかに離れているものでも、すべてを「自分にとって」という眼で支配する。見ることは支配することなのだ。知ることで、「自分にとって」という世界を安定させたいのだ。この煩悩深重なしには、世界を認識することができなかった。煩悩は「熾盛」と言われるが、私は「深重」という感じに受け止める。煩悩は重たく、自分でも意識できないくらいに深いとことからやってくるものだから。
しかし、これも「後ろ向き」だから自覚できたことだろう。阿弥陀さんに背を向け、後ろ向きになっているからだろう。「後ろ向き」になって、背中のほうに向かっていく感覚だ。これが「南無」ということではないか。阿弥陀さんにおまかせで、「後ろ向き」になることだ。「後ろ向き」に阿弥陀さんに引っ張られていくだけだ。だから、私が見ている光景は、阿弥陀さんによって見せられている世界だ。どんな色も、阿弥陀色だった。それこそ「方便色」だ。どんな色も、それは阿弥陀さんが教えてくれた色なのだ。「方便」として。つまり、私を教える手立てとして。阿弥陀さんはどんな教えを示してくれるのだろうか。私が「既知」のことにしてしまっている世界を、ことごとくひっくり返して、何を教えてくれるのだろうか。いまだに聞いたことのない教えを、今日も、そして〈いま〉も、開き続けてくださっている。