究極との格闘

昨日は「新盆合同法要兼ご命日の集い」だった。久しぶりに本堂にたくさんのひとが参集された。気温も丁度よかったから、窓を開けて外の空気を入れながら開催することができた。やはり、話の中心は「〈真・宗〉」だった。人間の生きている意味空間を「虚偽」としてえぐり出す「〈真実〉」を語った。「虚偽」の他に「〈真実〉」があるわけではない。人間の意味空間を「虚偽」として照らし出すはたらきを「〈真実〉」と名づけているだけだ。だから「〈真実〉」など人間が見ることも知ることもできない。「〈真・宗〉」とは「〈真実〉を宗とする」ことで、「宗」とは宗派の意味ではなく、「一番大切なこと」「生きる中心軸」「究極的な拠り所」「いつも自分が帰っていくところ」である。「〈真宗〉」という軸がないと、帰っていくところは「自分」しかなくなる。「自分」という「思い」に帰っていくしかない。だから「自分」に閉じこもってしまう。まあ「自分」という思いも幻想なのだが。「自分」というものがあるかのようにして「現代人」は生きているから仕方がない。本当は、無いのだ。関係性でなりたっている網の目があるだけで、「自分」という実体があるわけではない。これが「〈真実〉」からの批判だ。
八街市のトラック事故で亡くなった小学生のことをテレビでやっていた。あまりの痛ましさに、あれが放映されると他局にチャンネルを変えていた。小学生は何の落ち度もない被害者で、飲酒したトラック運転手は極悪の加害者だ。無垢の小学生のいのちを奪ったのだから、あの加害運転手を極刑にすべきと、人間界では言っている。確かにそうだ。被害者家族は、加害者を殺しても飽き足らないだろう。しかし、阿弥陀さんはそうは言わない。あの事故に加害者はいない、すべては被害者であると。あの運転手も自分の意志で事故を起こしたわけではなかろう。事故は起こしたくなかったに違いない。しかし事故を起こすような業縁に支配され、起こしてしまった。だから運転手も被害者だ。これは人間界では通じない考え方だ。唯一、阿弥陀さんからの批判としてのみ言えることである。なぜなら、死の縁(条件)は「事故」だが、死の因(根本原因)は「誕生」以外にないからだ。誕生は「生」と同時に「死」が誕生することだ。これはなかなか見えないことだが、「死」も誕生していたのだ。その意味で、我々は全員被害者である。
人間の意識は、「自分」という殻に閉じこもっていくものかもしれない。昨日49日納骨をした女性は、あっという間に、ガンで亡くなられたひとだった。家族は、彼女の死をどう受け取っていただろうか。同じ家族であっても、一人一人感じ方は違っているはずだ。悲嘆にも温度差がある。彼女はひとりかもしれないが、本当は彼女と関係をもったひとと同じ数だけの彼女が存在していたのだろう。もし彼女を「可哀想だ」と思ったとしたなら、私もやがて「可哀想」な存在として受け取られてしまう。私も必ずいのちの終わりを迎えるのだから。「寂しい」という感じは、自分を超えて起こってくる。それは当然だ。自分の前から彼女の存在がなくなるのだから。「寂しい」という感情は、「自分が寂しい」のであって、これは自分の「貪欲」が感じる感情だ。しかし、「可哀想だ」という思いは、「生=幸福」・「死=不幸」という損得勘定がベースになっている。これも「貪欲」絡みの分別心が引き起こしている。究極的に、問題は、この「自分」と呼ばれているものが、一体全体、どこへ往くのかだ。「いま・ここ・わたし」が、まったく新たな、未知のものとして、いかにいただき直されるかだ。そのためには、「自己と阿弥陀(究極)」とが火花を散らすべく、ぶつかっていかねばならない。火花を散らすようにだ。