「なづける」と「なづけたてまつる」

西本文英先生の続き。「仏を見ようと思うたら、この西本を見よ」で、「評判」が立った西本先生だが、その後に「地獄の鬼を見ようと思うたら、この西本を見よ」ということも言われた。しかし、これはまったく人口に膾炙しなかったらしい。これは「自己否定」の文脈だからだ。それを聞いて、皆は、「当然だろう」と思った。しかし、「仏を見ようと思うたら」はそうはいかなかった。「自己肯定」風の文脈に受け取られたからだ。それにしても「誤解」というものはすごい力を持っている。一番代表的なものが「他力本願」だろう。曇鸞さんが、いまから一五〇〇年程前に「他力」と使ってから、「誤解」で今日まで人口に膾炙している。仏教の伝統的な言葉で言えば「利他」だったが、それを当時のスラングの「他力」を使って表現した。スラングだから一五〇〇年も生き延びてきたのだ。とにかく「布教」や「伝道」で人々に広めたわけでは、まったくない。まあ「他力」を「他者の力」と誤解されることで流行ってきたのだ。その意味で「仏を見ようと思うたら」は、当時の人々に「誤解」で評判を呼んだ。私の言葉で言えば「反問性」だ。これは西本先生から〈私一人〉に突きつけられた問いなのだ。「あなたは本当の仏に出会っているのか」と。いままで貴方が「仏」だと思っているものの実体は何かと。阿弥陀さんが本尊だと言ってはいるが、阿弥陀さんとは何か。ただ理屈でそう言っているだけではないのか。もし人間が「これこれしかじかだと考えています」と答えてしまったら、「それが本当の仏だと思っているのか」と叱られる。阿弥陀の意味は、「阿(a)・弥陀(mita)」で漢訳すれば「無・量」であり、翻訳すれば「人間の思いでは量ることが出来ない」という意味だ。だから「阿弥陀」は「否定語」だ。それなのに「これこれしかじかだ」と人間の思いの中に取り込んでしまったら、それは「本当の阿弥陀さん」ではないことになる。それで松原源荃さんは、「そうではないということを聞くんである」とおっしゃったのだろう。人間は、自分が思ったとおりの答えが見つかったとき「そうだ」と手をたたいて喜ぶ。「阿弥陀さん」とはこういう意味だったのだと分かったら、それは「そうだ」になってしまう。本当は、「そうだ」が「そうではない」に変わらなくてはならない。人間の手に、決して届かないから、「阿弥陀さん」なんだ。でも、人間は「そうだ」が欲しく、「そうではない」は嫌う。「そうではない」は人間に不安を与えるから。「そうだ」で、自分を固めたいのが人間だから。お前だって「阿弥陀さん」という言葉を使うじゃないかと、批判されそうだ。そうなんだ。「阿弥陀さん」と使っている。だからと言って「阿弥陀さん」を知っているわけではない。「阿弥陀さん」を知る能力のあるものは、「阿弥陀さん」と同等のものでなければならない。だから本当は知らないのに「阿弥陀さん」と使っている。ただ、この「阿弥陀さん」という言葉を使わなければ、収まりが付かない人間の事情がある。親鸞も「阿弥陀となづけたてまつる」と和讃で言っている。「なづける」と「なづけたてまつる」は雲泥の差だ。「なづけたてまつる」は、本質的に人間が名付けることのできないものを、仮に名付けさせていただくという意味だ。だから人間の事情なのだ。人間の「知」を「癡」として批判することで、素面に戻す光源みたいなものだ。光源を人間の眼でみつめることはできない。ただ光源から発するひかりによって、照らされた部分だけしか分からない。別の表現をすれば、人間の生きる意味は、本質的に阿弥陀さんだけが御存じのことで、私には分からないということなのだ。知は獲物を捕まえて我が物にしようとする「癡の触手」だ。その触手をバッサリ切り落としてくださるものが、光源としての「阿弥陀さん」そのものなのだ。「阿弥陀さん」がなければ、「癡」の中で一生酔い続けねばならない。