仏を見ようと思うたら、この西本を見よ

少し前に届いていた「親鸞仏教センター通信」77号(2021/06)の末尾に、西本文英先生のことが載っていて、懐かしく、嬉しかった。先生は東京でもご活躍で、拙寺に何度もお話に来られた。西本先生と言えば「仏を見ようとおもうたら、この西本を見よ!」だ。これは先生が如来回向で賜った真理の一言だ。通信には「仏を見ようと思うたならこの西本を見よ」と記されていて、これは間違いである。先生は「思うたら」とよくおっしゃっていて、「このたら、が大事なんです」と強調された。「見たくないものは見んでもええんです」ともおっしゃった。当時の宗務総長・訓覇信雄さんに、「それをやめてくれ」と言われたそうだ。そのとき西本先生は社会部長されていたが、その職をなげうって自坊の福井へ帰られたとお聞きした。この言葉は如来からいただいた真理の一言だから、それをやめることはできない。やめることができないようなら部長の職をやめるしかない。先生は潔かった。
飄々としていて、お酒が好きで、娑婆人のしたたかさも持ち合わせていた。人間は「多重文脈体」だから、いろんな面をお持ちだが、その中を煌々と〈真実〉が貫ぬき通していた。仲野良俊先生も、気高き仏者だったが、お酒も、そして株がお好きだった。短波放送を聞いておられた。その一面を見て、「あの先生は娑婆気が抜けないから偽物だ」と言ったひとがあったが、それは人間をちゃんと見ていないひとだ。人間は「多重文脈体」だから、様々な面がある、あらねばならない。そうせざるを得なくてそうしていることが現実だから。ただし、その中を貫いているもの、それが見えるかどうかだ。
西本先生の「仏を見ようとおもうたら、この西本を見よ!」も誤解を受けた。「自分を、仏だと言っているいかれた坊主がいる」と誤解を受けた。先生はご自分を仏だとは一言も言っていないのだ。だから先生のこの言葉をどう理解するかということで、その人間の程度がばれてしまう。この言葉をどう受け取るかで、自分の宗教的度量が暴かれてしまうのだ。先生は、聴衆から、「先生の顔はちっとも仏さんに似てないじゃないか」と言われたとき、「あんたは本当の仏の顔を見たことがあるのですか?」と問われます。そうすると聴衆は本堂に立っている阿弥陀さんを指差して、「仏さんと先生は似てませんよ」と答える。先生は「あれは木彫りの人形だ、あれが本当の仏の顔だと思っているのか」と詰め寄る。聴衆は、唖然とする。先生は「本当の仏の顔も知らないで、どうしてワシの顔と仏の顔の違いがわかるんだ」とたたみかける。これは禅の公案の如しだ。
先生は安田理深先生の教えに導かれたそうだ。ある人が安田先生に「西本さんの、あの発言をどう思いますか」と聞かれたとき、安田先生は決して否定されなかったとお聞きした。まあ絶賛したわけでもないと思うが。
究極のことは、やはり「面々のおんはからい」というのが〈真宗〉だ。金子みすずの「みんなちがってみんないい」だ。最後の「みんないい」と言える視座をどう見いだすかだけが、問われている。