〈ほんとう〉は唸っている

寺報「よびごえ」129号が出た。そこに『相互救済物語』の宣伝が載ってしまったので、購入注文が来てしまった。これは印刷の手順を間違え、まだ本の印刷は出来上がっていない。「よびごえ」に、これから発売予定と書けばよかったのだが、配慮が行き届かなかった。7月上旬には刷り上がってくるので、出来次第送る約束をした。
本とは、文字の羅列だ。紙の表面に、黒いインクが線状に印刷されているだけの媒体だ。なんで人間は文字を読むのだろうか。これは永遠の問いだ。知的欲求という、人間特有の性質のためだろう。人間は、何でも並んでいるものを見ると数えたくなる衝動をもっている。これはまど・みちおさんが詩にされていた。「かもつれっしゃが ごっとん とんとん ごっとん とんとん おんなじものが つづいていくと なぜだか なぜだか かぞえたくなる かぞえて こころに しらせたくなる えだですずめが ちゅんちゅん ちゅんちゅん ちゅんちゅん ちゅんちゅん おんなじものが ならんでいると なぜだか なぜだか かぞえたくなる かぞえて みんなに おしえたくなる」(かぞえたくなる)ここに見事に易しく人間の知的欲求、仏教語で言えば「貪欲」が表現されている。高層マンションが建っていると、何階建てだろうか?と知らず知らずに数えている自分に気付いた。電線や建物に止まっているカラスの数を数えている自分がいた。これは自分だけのことかと高をくくっていただ、そんな浅いことではなかった。人類というやつが持っている根深い欲求だと教えられた。その人類が深層で保っている貪欲が、私という噴火口から噴火したようなものだ。私は人類の噴火口だから、私から出てくるものは人類のもっているあらゆるものだ。見くびっていたな。
その文字を目で追っていくと、こころの中に何かが起こる。「へえ、そういうことなの」という知的納得をするときもある。しかし、仏法はそういう知り方とはちょっと違う。私流に言えば、読んでいくことで、何か新鮮なものに触れる喜びだ。その新鮮なものとは、これも私流だが、〈ほんとう〉というものだ。〈ほんとう〉に触れると、ワクワクする。まあ穏やかな感動と言ったほうがよいだろう。安田理深先生の表現を漁っていると、地引き網に引っかかるようにして〈ほんとう〉が湧き上がってくる。たとえば「真宗は未来往生ではあっても、死後往生ではない」という表現がそれだ。私の中で死後往生も未来往生も同じように考えていたが先生は違うと指摘されていた。この違いが〈ほんとう〉を湧き上がらせる。そしていままで考えていた考えをより厳密に、より〈ほんとう〉に適ったものへと変えてくださる。文字を読むということは、この〈ほんとう〉と出会いたいからなんだ。あの本を開くまで、本は沈黙しているように見える。しかし、本当は〈ほんとう〉が唸っているんだ。唸りを上げているのだ。