蝶の自力

毎年のことだが、蝶が死ぬ。寺には温室とまではいかないが、屋根が透明なガラス張りになっていて下部は開放された場所がある。その透明な部分には琉球朝顔のつるもはびこっていて、花を咲かせている。この朝顔は夏だけに咲く朝顔よりも強く、四季を通して花のない時期は少ない。冬でも、そこは透明なガラスだから上部は温かいのだろう。紫色の花で、我々を和ませてくれる。この頃、その花を目当てにか、蝶がやって来る。アゲハチョウや黒い蝶で、モンシロチョウのような小型の蝶は来ない。最初はヒラヒラと舞っているのだが、ある時期を境にしてヒラヒラではなく、バタバタと必死になっている。そして必死になって上部へ上部へと行こうとする。何でそんなふうになるのだろうかと見ていて分かったのは、蝶はあるとき、気付いてしまったのだ。誰かが意図的に自分を捕まえようとしていることに。ほんとうは誰も捕まえようとはしていないのだけれども、蝶は透明なガラスに行き先を阻まれることで、そう解釈したのだ。捕まえようとしている手から逃れるように必死になってバタバタしている。そうして、とうとう最後には力尽きて、朝顔の近くて動かなくなっている。その事件に気付いたときには、何とかそこから蝶を脱出させようとあれこれやってみたのだが、上手くいかない。一旦は、下部へと身を低くしなければ、そこから脱出できないが、蝶は下部へ行くのを極力嫌がる。もともとそこから入って来たのだか、蝶にとっては下部に行くことが「死」を意味すると解釈されているのだろう、逆に上部へ行こうとバタつく。そうやって動かなくなった蝶が毎年、何匹も発見される。これも、「人間」というものの愚かさを教えてくれる教材だ。上部へ上部へと必死になっている蝶の姿は、「人間」そのものではないか。誰もあなたを捕まえようとはしていないのに、被虐的になって、必死にその見えない手から逃れようとしている。蝶にも「自力のこころ」があったのか。