親鸞に一喜一憂しない

以前は、親鸞の表現に一喜一憂していたが、近頃はそれがなくなった。今朝のお朝事では、「称名念仏はげむべし」というフレーズ(和讃)が出てきたが、親鸞が何を思ってこういうふうに書いたのかは、本当のところは分からないからだ。ナンマンダブツと一生懸命に発声しなさいという思いで書いたのかもしれないし、そうではないかもしれない。
親鸞がどう思おうとよいのだ。それは親鸞と阿弥陀さんとの対話の中から生まれた表現だから。よくない受け止めは、親鸞を「分かった人」にしれしまうことだ。「親鸞は分かっていた。分かったところから書いている。しかし、私に分からない」と退一歩して受け止めることだ。それでは「私と親鸞」が対話してしまっている。そうではなくて、私も「私と阿弥陀ださん」との対話が基軸になければならない。その基軸の対話の中で親鸞の表現を考えるべきた。そうなると「へえ、親鸞聖人はそのように受け止められたのですか。しかし、私はこう受け止めますよ」という余裕が生まれる。これが「面々の御はからい」という言葉の現れる大地である。
思えば、私のいままでは「阿弥陀さん」とだけ対話してきた時間だ。それも〈一人一世界〉の中で。