永六輔の親

たまたまテレビを見ていたら、Eテレの「知恵泉」で永六輔を取り上げていた。懐かしかった。と言っても、永さん本人とは面識はないのだが、母が再従兄弟で、昔のことを語っていた。六輔さんは本名が「孝夫」と言っていて、母は「孝夫ちゃんが遊びに来ると、怖いのよ」と話していた。傍若無人に振る舞う、やんちゃな性格だったようだ。
私は六輔さん本人よりも、お父さんの永忠順さんとの縁が深かった。元浅草の最尊寺の住職をされていた。忠順さんは、私の祖父と従兄弟同士なので、因速寺にもよく見えたし、私も最尊寺に遊びに顔を出していた。そういうご縁で、私たちの仲人をお引き受けいただいたこともあった。そんな縁から私は「おじさん」と呼んでいた。
お正月だったかどうか記憶に定かではないのだが、従兄弟同士三人の酒宴が因速寺で催されていた。ひとりは祖父の定賢、永のおじさん、もうひとりは長泉寺の井上英哉さん。うちの祖父は酒好きで、毎晩、呑んでいた。だから、その酒宴も定賢がひとりで盛り上がっていたように記憶している。永のおじさんと英哉さんはお付き合い程度に呑まれていた。
ただ、定賢は俳句や盆栽など多趣味人で、その時も筆と色紙を持ってきて、好きな言葉を書こうと言い出した。それがいまでも残っている。定賢は「ワガママを 言ってくたばる 果報者」と書いた。みんな、この言葉をみて、まさにそのとおりと頷いた。
永のおじさんは「浅草や 酔えば女は 足袋を脱ぎ」と書いた。ちょっぴりエロチックな川柳だ。永のおじさんは、「浅草の粋なご隠居」という言葉がピッタリのひとだった。法然上人のものや、歎異抄についての本も書かれている見識の持ち主でもある。軽妙洒脱という雰囲気を醸していた。この川柳も、おじさんの人となりを十分に表している。いつもお会いするときは、照れ屋で、はにかんだような微笑を湛えて応対してくれた。
最後の英哉さんは「馬鹿はしななきゃ なおらねえ」と書いた。これは目の前で酒を飲んで言いたいこと言っている定賢に対する当てこすりだ。お酒のせいだろう、「死ななきゃ」と書かねばならないところを、「死なきゃ」と書いてしまい、「な」が脱字になっていて、それを後から訂正してある。これら三人三様の人間性が丸出しの言葉に、「文は人なり」がピッタリと当てはまった。やはりあのおじさんから生まれるべくして生まれたのが六輔さんなんだろう。
六輔さんを縁にして、お父さんの忠順さんの思い出話になってしまった。