「食べる」について

「食べる」について。「食べる」とはいったいどういうことなのだろうか。それが分からない。人間はそれにいろいろな理屈をつける。「人間ってやつは、食わなきゃ死んじまうだろ。だから食ってるんじゃねえか」とか、「生物は他の生物を捕食することでいのちをつなぐ生き物である」とか。「そんな屁理屈はいいんだ。ただ腹が減ったから食う。それだけだ」とか。
でも、それらはすべて人間の解釈であって、「食べる」ということをひとつも解明はしていない。
私たち真宗門徒は仏壇にご飯を供える。それを「御仏供」とか「お仏飯」とか言う。これをなぜ供えるのかと言えば、仏さんへの感謝だというのが答えらしい。別に亡くなった方々の食べ物という意味ではない。感謝と言えば、そうなのかもしれないが、それでは「食べられるほう」の言い分が反映されていない。食べるほうは、食べて感謝するのだろうが。食べられるほうは堪ったもんじゃない。食べるということは、食べられる相手の承諾なしの一方的行為だから。だから詩人のまどみちおさんは、こんな詩を書いている。
「さかなやさんが さかなを うっているのを さかなは しらない にんげんが みんな さかなを たべてるのを さかなは しらない うみのさかなも かわのさかなも みんな しらない」(さかな)と。
ここにはひとつも人間を責める文言が入っていない。入っていないから、逆に私の罪を重くあぶり出す。魚は、みんな知らないうちに殺されて、知らないうちに売られて、知らないうちに食べられていると。そう言われると、ゾッとする。だから、それを忘れないために、「お仏飯」を目の前に安置するのではないか。お前の罪を忘れるなとね。でも、そういいつつ、やはりそんな罪など忘れ果てて、焼き肉にむさぼり付いているのが私だ。そう言って書いてしまっては、自分を自分で慰めている自分がいる。どこまでも自分は、自己保身にしか関心はないのだ。
 さあ果たして、「食べる」ということは、どういうことなのか。ますます謎が深まるばかりだ。多分、これは一生かかっても分からないことなのかもしれない。また、少し時間が経てば、私は食べているのだ。食べ続けていくのだ。