正像末和讃に、読経では声に出して読まない和讃がある。だからこの和讃をお朝事では一首飛ばして上げる作法になっている。それは、この和讃だ。「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞそきまう」だ。意味は「念仏の教えを謗るものは無間地獄に堕ちて、八万劫にわたり激しい苦悩を絶え間なく受け続けると説かれている。」(本願寺出版社、「三帖和讃」現代語版)なぜこの和讃を上げないのか、不思議だなと思っていた。まあ、現代を生きる私の感性で読めば、「念仏の教えを謗るもの」に向かって、地獄に堕ちて大変な苦しみを受けるとお釈迦さんが言ってるよというふうに読める。しかしなぜこの和讃を上げないのか。柏原祐義先生は「『観仏三昧経』や『十往生経』によれば、念仏をそしる衆生はいわゆる謗法罪であるから、死後直ちに無間地獄に堕ち込んで八万劫の間、ひまなく大苦悩を受くるぞとも誡めておられる。これらはみな、父の如き釈尊が、誡めをもって反面から念仏の一法を勧め給うのである。」(『三帖和讃講義』)と述べられている。これはいわゆる善導大師の「抑止門」という解釈法と同じだ。念仏を誹謗するとひどい目に遭うから、そうならないように念仏を大切にしなさいよという解釈法だ。しかし、「抑止門」という解釈であれば、唱えないという作法にまで発展するだろうか。唱えないというのは、やはり、唱えたから問題が発生したか、あるいは唱えたら問題が発生するのではないかと危ぶんだという二つの理由しか考えられない。
それで、その理由を、その筋のひとに聞いたところ、こういう答えが返ってきた。「不誦の和讃については、『その意味合いからという説がありますが、明確な理由や典拠は見あたりません。』ただ『コノ讃ヲヒクヘカラス』という記載が「存如本三帖和讃」に有ることから不誦の起源は存如上人までは遡れます」。「その意味合いから」とは念仏誹謗の有情」を自分に属することでなく、自分以外の向こうにいるひとを想定しているという意味だろう。つまり、他者批判になっているから、他者を批判するようなことはよくないことだと憚って、唱えないという結論に達したということだろう。
宗教教団というものが起こった初期の頃、その集団を支える人間たちは他者批判をためらいなくおこなう傾向にある。一言で言えば「失うものがないから、自分の信じた信仰を掲げて突き進める」わけだ。しかし、教団が安定期に入ると、今度は「捨て身」から「守り」へとシフトチェンジする。もし本願寺教団がそういう段階に入っていたなら、「その意味合いから」が納得できる。
「コノ讃ヲヒクヘカラス」という記述があるということは、存如上人が指示したものかどうかは別としても、この時期に「不誦」が慣例化したものなのだろう。そうするとこの時期に教団は安定期に入ってのだろうか。存如上人(1396~1457)とは本願寺の七代目で、蓮如上人の父親である。しかし、蓮如が生まれたときの本願寺は貧しかった言われる。教団が巨大化するのは蓮如を待たなければならなかった。そうなるとまだ教団の安定期とは言えないので、私の見方が間違っているかもしれない。
この「コノ讃ヲヒクヘカラス」が存如が禁じたことであったとしたら、存如はどこに問題を感じ取ったのだろうか。やはり、存如の個人的な感性に淵源があるのだろうか。
そもそもこの和讃を書いた親鸞は、どういう思いで書いたのだろうか。「承元の法難」を起こした権力者たちを念頭に置いたであろうか、それとも自分自身を「誹謗の有情」として想定しただろうか。私の現在は、そこまでしか追い詰めることができなかった。