ぎっくり腰になったり、五十肩になったり、大腸憩室炎になったりと、いろいろな身体の不具合が現れてきた。その都度、ひとから慰められたり、労われたりした。そしていつも最後の言葉が、「お大事に」だった。「お大事に」と言われれば、こっちは「有り難うございます」と受けるより仕方がなかった。相手のかたも、こころから慰めようとして、そうおっしゃって下さるのだから、有り難いことに違いないのだ。文句を言うことはできない。
ただ、毎回、「お大事に」と言われると、何か、こっちに溜まっていくものがあった。それは「お大事に」と言われても、どのように大事にすればよいのかが分からないという思いだ。最後は「お大事に」しかないのは分かっているのだけれども、どうも澱のように溜まっていくのだ。相手は、「お大事に」と言えば、それを最後に、お別れできるのだから安心だろう。「お大事に」とさえ言っておけば、それで自分の普段の生活に戻ることができるのだから。しかしそう言われたほうは、そうはいかない。どのように大事にすればよいのか分からず、突き放されたような、放置されたような気分になる。
でも人間界では、これより他に為す術がない。他にどういう言葉を言えばよいかが分からない。その為す術がなくなった後に、初めて仏さんとの関係が開かれることになる。所詮、この世は〈一人一世界〉で、自分しか生きてはいないのだから。代替え不可能な、そして厳粛な一人性以外に住む世界はないのだから。
日常生活は、日常という雑踏に紛れているようだが、その皮を剥げば、絶対の一人以外にない。それが阿弥陀さんと出遇う場所なんだ。