46年前に、〈真・宗〉と言われる得たいの知れないものに出遇ったと、自分では記憶している。いまという時から、その出来事を振り返ってみている。その振り返りの内容である「記憶の束」を、恐らく親鸞だったら「一念」と言うのではなかろうか。「一念」とは「一瞬」であり、「一生」であるような時間だ。蓮如が「ゆめまぼろしのごとき一期なり」(白骨の御文)というのも、その「一念」のことだろう。
つまり、過去の全記憶は現在の意識内容でしかないということだ。そうやって全過去が現在の内容だったと気がつくと、時間が逆流する。46年前から〈真・宗〉に関わっていて何がどう変わったのかと言えば、いよいよ〈真・宗〉に出遇う前の自分へと戻されていくような感覚だ。人間の目で見れば、46年も生きてきても何にもならない、無駄なことだと映るだろう。あるいは人間の目で見れば「深まった」とか言いたくなるのだが、そう言わせないものがある。私の言い方では、「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」だ。これが「時間の逆流」というやつだ。
保育園へ行く孫と付き合っていると、自分の幼少期へと引き戻される。あの飽くなき好奇心の塊。とどまることのない「大いなる無駄」な行為。それが逆流し出すと、もっと引き戻される。それは自分が原始人であり、もっと小さな生き物であったころへ。この「時間の逆流」が起こると、陶然としてしまう。歎異抄に「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」(第16条)と言われているが、この「ただほれぼれと」が、それだろう。陶然でもあり呆然でもある。自分の中には、系統発生樹があり、永遠が溢れている。