真宗大谷派名古屋別院から『信道』が3月31日に発刊された。これは2019年度に、東西本願寺の坊さん11人が「『蓮如上人御一代記聞書』に聞く」というテーマのもとで講演したものをまとめたものだ。(¥1800)小生が与えられたテーマは「そのかごを水につけよ」だった。この『御一代記聞書』は蓮如さんの日常生活の中でのエピソードが多く、短文だが面白い。
ある門徒が、こう言った。「本堂で、法話を聞いているときは分かったような気がしたんだ。でも、山門を出た途端に、何だかわからなくなってきた」と。「まるで私は、かごみたいなもんで、水をためようと思っても、みんな抜けて漏れてしまうのです。」と。それを聞いた蓮如は、「だったらそのかごを水に浸しておけばよいのだ!」と言ったというエピソードだ。
かごで水を掬おうとするから漏れてしまうので、そのざるかごを水にザブンと丸ごと浸してしまえば、そのざるの中には水が漫々と湛えられるではないかという譬喩で、門徒の問題を指摘した。ざるとは、知的理解の譬喩で、水とは仏法そのものの譬喩だ。
私はこのエピソードを受けて、「自分は人生の主人公ではない」と副題を付けた。「自分」は自分の知力で、そして「自分」と思う所有意識でもって自分の領域を決めているにすぎない。ほんとうはあらゆることが仏法の展開であって、本質的に「自分」という実体はない。「仏法は無我にてそうろう」という蓮如の表現も、それと同じだ。人生は、「自分」という所有意識からは始まっていない。それを暗示する和讃が「弥陀成仏のこのかたは」だ。「自分」がどこから始まったのかと言えば、それは「弥陀成仏のこのかたは」なんだ。それほどに「自分」のいのちの根っこは深く、そして広い。だから、「絶対受動」が「自分」だ。それなのに「自分」は「自分」で成り立っているという幻想を持ってしまった。それが「かご」という譬喩が暗示しているところだ。「かご」は、「自分」と「世界」とを分割する意識だ。ほんとうは一如なんだ。だから、「自分」という分割意識では、一如が漏れてしまう。ほんとうは分割することが不可能なのだ。それが「かごを水につけよ」の暗示するところだろう。
蓮如は、「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」とも言っている。これをどう読むかも問題のところだ。蓮如は教団を組織化するという業を負っていたから、政治的意味空間で語ったのかもしれない。しかし、私はそれを突き詰めて、「なぜ生きるのか」という意味空間を第一義とし、「どう生きるか」という意味空間を第二義とせよと受け取った。娑婆は、「どう生きるか」という関心だけの世界だ。そこに「なぜ生きるのか」という問いの楔を打つのが仏法だ。そう言っても、「なぜ生きるのか」という問題に、人間は答えることができない。そんなことを問題にするより、「どう生きるか」という問題でいっぱいいっぱいなんだ。「なぜ生きるのか」という問題を考えていられるほど暇はない。だから、そういう関心から言えば、いわゆる〈宗教〉は、ほとんど役に立たないことである。この役に立たないものに一生関わり果てるのが信仰というものだろう。
いまバラの花が満開だ。バラは、誰かを喜ばせようとして咲いてはいない。ただ、このバラを見て、美しいと感動する人間がいるだけだ。この感動が、「なぜ生きるのか」と問う人間から、この問いを奪う。奪った後、宇宙開闢の時を与える。永遠は、まさに〈いま〉ここに、厳然と噴出している。