『東京教報』という冊子が東京教区から年2回発行されている。いわゆる「官報」だ。その「巻頭言」を数年に渡って依頼されている。4月1日に「180号」が発刊された。ただ教区内の人間だけに読まれるには、あまりに可哀想なので、ここに文章を転載することにした。
テーマ:
〈真・宗〉は「死なない」宗教
本文:
「死なない」とは不老不死の意味ではない。そのために「死なない」と括弧を付けた。
以前、私はこのように理解していた。「人間ばかりでなく、すべての生き物は死ぬ。死は生理的なことで誰も逃れることができない。それでも真宗は、ひとが亡くなることを『死ぬ』とは言わず、『往生する』と表現するのだ」と。
この理解では、「死ぬ」ことが自明の出来事になっている。自分は「死ぬ」ことを知っているが、それを真宗では「死ぬ」とは言わず「往生すると意味づける」のだと思っていた。しかしそれが間違だと気付いた。
自分は「死」を完全には知らないからだ。自分が知っている「死」は二人称、あるいは三人称の死であり、「一人称の死」では決してない。自分はまだ死を体験したことがないのに、死が何かを知っているという思い上がりがそこに潜んでいる。この思い上がりでイメージされた「死」は、「暗く、冷たく、寂しい」ものだ。
なぜそう感じるかと言えば、他者の「死」を〈利害損得心〉で見て、「死」をイメージするからだ。親鸞は、この思い上がりから生まれるイメージの解体を「往生」という言葉で直感したのではないか。
さらに親鸞は、それを「断」という強烈な言葉で提示する。「『断』と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。」(『教行信証』(信巻)真宗聖典二四四頁)と。往生とは、死んで他の生き物に生れ変わるとか、理想の他界や地獄に生まれることでは、まったくないという意味だ。
しかし、そう言われても、まだ体験したことのない自分の「死」を、あれこれとイメージしてしまうのも偽らざるところだ。たとえそうであってもよいのだ。そのイメージが沸き起こる度に、「往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。」(歎異抄・聖典六三七頁)と断じようとして阿弥陀さんが関わって下さるから。自分が知っている死のイメージが完全に解体される「臨終の一念」に到るまで。