3月20日に発症した「ぎっくり腰」がまだ治らない。以前の経験だと、ほぼ10日で治癒していた。それがまだ治らないということは、もしや「椎間板ヘルニア」ではないかと疑いを持ち始めた。整体の先生は、坐骨神経痛でしょうと言っている。大枠で捉えれば「腰痛」だが、これは人類が二足歩行をするようになったが故の病であるらしい。だから四つ脚の生き物には腰痛はないと聞く。全人類ならではの病を、私一人が体験している。「痛み」とは、肉体が意識に侵蝕してくる現象だ。これは身体の不調を教えてくれるためのサインだから、身体にとってはとても大事なことらしい。95歳の伯母は私と同じように大腸憩室症の持ち主だ。彼女の憩室炎は変わっていて、痛みを伴わないという。痛みを伴えば、すぐに病院へ行けるのだが、痛みを伴わないので、出血して大変な状態になってから、初めて分かるのだそうだ。だから、たちが悪い。痛みは、病状が深刻にならないための身体のサインだった。だから、痛みは大事なのだ。しかし、痛みがサインだとして、それが何の病状のサインなのかが分からなければ、サインの意味もないことになる。老いるということは、不可知の痛みが意識のほうへ侵蝕してくる程度が激しくなることではないか。若いときは、身体は無意識状態だから、身体を自覚しなくてよい。つまり、身体をもって動いているということにも無自覚状態でいられる。自由に行為ができるということは、意識にとって身体が無意識化された状態だから、「身体はない」に等しい。若いときは「身体」を「身体」として意識することがないから、「身体をもっていない状態」だ。老いるということで初めて、自分には「身体」があったことを思い知る。それは痛みや不具合が意識を侵蝕してくるからだ。いままで痛かった右肩の「五十肩」が、左肩で発症し出した。いままでは右肩の五十肩は徐々に無意識化されていくと思っていた矢先に、逆に左肩で発症するとは。治っていくと思い込んでいた意識が空振りさせられた。これが「老いる」の本質なのだろう。お釈迦さんは、「老・病・死を見て世の非常を悟る」ことで出家したと言われる。それは29歳の時だったそうだ。若いお釈迦さんは、老いて病になり死んでいく我が身を想像したのだろう。そこから「生きる意味」を探求し始めることで仏教が成り立った。それはそれで素晴らしいことだ。だが、老人を見、病人を見、死人を見ただけであって、我が身にそれを体験してはいない。ほんとうにそれを体験するのは、「老いる」という段階に入ってからのことなのだ。まあ「老いる」ということも、それが人間にとってどういうことなのかは、まだ完全には解明されていないのだが。吉本隆明さんは「老人」を「超人間」と呼んだが、そういう面もなきにしもあらずだ。既成の「人間」の定義では捉えることのできない何ものかなのだから。まず、この身体に同伴して、静かに、意識は聞いていかなければならない。