親鸞は「断」と言って、人間が死後に生まれるであろう場所の予想やイメージを断絶するが、ファンタジーを豊かに遊んでいる。
自分が先に往って待っていてくださいよとか、自分が浄土で必ずあなたを待っていますよなどと手紙に書いている。なぜファンタジーと原理が共存できるのか?
ファンタジーだけだと第19願の世界になってしまうからだろう。かと言って、原理だけだと殺伐としてしまう。原理は知の領域だが、ファンタジーは感情の領域だ。その両方を阿弥陀は「智慧」(知)と「慈悲」(感)とで出来上がっていると説いてきた。智慧は勢至菩薩で、慈悲が観音菩薩として象徴し、「弥陀三尊」を荘厳した。
原理は、真なるものを立て、偽なるものを排除する。しかし、ファンタジーは曖昧を許す。そして三次元を遊ぶ。ユングが「概念は明確だが生命力に欠ける。イメージは曖昧だが、生命力に溢れている。」と語ったことと共鳴する。原理は知による分析分割
(否定)だが、ファンタジーは包摂統合(肯定)だ。この矛盾した両性が不可欠だ。
数年前、「千の風」が流行った。私はお墓の中にはいない、眠ってなどいない、風になっているという。これはファンタジーの表現だ。しかし、原理は、その表現を許さない。お墓の中で眠ってはいないが、「千の風」にもなっていないと否定する。まったく人間の知が届かないところだと。その否定が土台となって、その上にファンタジーが成り立つ。
南無の否定の上に阿弥陀が成り立つ。だから「阿弥陀と名づけたてまつる」だ。「阿弥陀と名づける」ではない。それでは、人間知の領域に阿弥陀を位置づけただけだ。この「たてまつる」は、それをも否定している。本来、名づけることの不可能なものを、仮に人間が名づけさせていただいていると。
神の名をみだりに唱えてはならないと神は言う。それは無礼で傲慢なことだから。神ではないものを神としてあがめてしまうから。しかし、阿弥陀は敢えて、人間の知の道具に成り下がろうとした。どのように考えてもよいと開き直った。人間に弄ばれてもよしと、人間界に身投げした。円空仏さながらだ。円空仏は、子どもたちのオモチャになってもよしと身投げした。そのオモチャを、勿体ないと親鸞は抱き上げた。それが「名づけたてまつる」だ。完全に否定をくぐっているから、どれでけ人間の手垢にまみれてもよしだ。やはり、人間には原理を生きることができないのだ。原理は、〈ほんとう〉という世界からの視線だが、それを人間は生きることができない。人間が生きられるのはファンタジーだけなんだ。原理を生きられないがゆえに、ファンタジーが遊べるのだ。ある新宗教の信者が、「この世」は仮の世だと言った。ほんとうは「あの世」であって、「あの世」へ往ったとき初めて、ほんとうのことが分かると。だから「この世」を軽々と生きているように見えた。「この世」に結論なしと。まるで第18願の世界のように。しかし、「あの世」がほんとうの世界だと誰が決めたのかと言えば、それは超能力の教祖だと言う。そうなるとそれは第19願になってしまう。自分には分からないが、教祖は分かっていて、教祖がほんとうだと言うからそれを信じるといえば、第19願だ。「いつでも、どこでも、だれでも」という「絶対基準」からはずれてしまう。第19願の幻想を破り覚醒させるのが第18願だ。第18願には人間の絶望を否定するが、希望をも否定する。その両方を否定して、「零度の存在」に帰す。