新聞に『「利他」とは何か』(集英社新書・伊藤亜紗 編。中島岳志 若松英輔 國分功一郎 磯崎憲一郎)の広告が出ていて、目に止まり、「利他」というテーマが付いているので、これは聞き捨てならないという思いから、ついAmazonで買ってしまった。
この本は、東工大の「未来の人類研究センター」の企画で、そのメンバー5人が、それぞれの立場で書いている。全員の共通トーンは、「空」という言葉に収斂できそうだ。つまり、作為的なものを延長したところには「利他」はなく、その作為的な力がからっぽになったところに、おのずから成り立つものだということだ。
仏教的な視点で、論じているひとはなかったが、やはり、親鸞とか歎異抄が出てきていた。
まあ、「利他」の「利」とは何か、「他」とは何かと、アプローチしていたのは、若松さんだった。
そこから柳宗悦を中心に論じていた。
しかし、私から考えれば、「他」がよくわからない。「利他」という言葉は、「自利」と対語になっているから、「自利」ではないことを「利他」が意味していることになる。
その場所の、「自」も突き詰めると、よく分からない。
大雑把に考えれば、自分と他人が「自利利他」という言葉ですぐに思い至ることになるが、それでは曖昧だ。その流れで「善きサマリア人のたとえ」も出ていたが、あれとてイエスのたとえ話だ。ほんとうにあんなことをしたひとがいたがどうかは分からない。まして、イエスがそうしたということを語っているわけでもない。まあほんとうに「利他」を実践するということは、たとえばそういうことではないかとイエスが言っているだけだ。まして、人間は必ず死ぬので、そこまでも含めた「利他」でなければ、ほんとうの「利他」を論じたことにはならないのではないか。
「自」も「他」も、突き詰めていくと、境界が曖昧になる。仏教は縁起(関係性)ですべてが成り立っていると考えるから、「自」と「他」を分割することはできない。ただ「思い」で「自」と「他」を分割しているだけで、事実とは違っている。だからほんとうは「自」も「他」もない。ただ「自然法爾」だと親鸞ならいうのではないか。
こういう考え方は、どうしても「絶対基準」に照らされたところからやってくる考えだ。どれほど人間が「自」と「他」について考えても、相対的なことでしか語れない。この「絶対基準」から射貫かれると、あらゆる価値が相対化されてしまう。射貫かれることを、「救い」と言っているだけだ。射貫かれると、「ただほれぼれと」という感情がやってくるのだと歎異抄は言う。
お彼岸だというのに、ぎっくり腰を発症し、行動が思うようにならないという、この二度と同じ事の繰り返しのない「絶対受動」の〈いま〉に直面させられている。