ついつい私は、「私たちは‥‥」とか「我々は‥‥」という言い方をしてしまう。その時の内面状態を正直に述べれば、「私たちは‥‥」ではなく、「お前たちは」になっている。いかにも私たちの問題だと語っているようだが、内面では、「お前たちは」になっていたのだ。自分のことはまった関係ない、お前たちこそこのことをよく考えろという思いに傾いていた。外面状況では「私たちは‥」という言い方を装いながら、内面状況では「お前たちは‥」になっている。だからそれは偽装だ。そうなると、私たちは‥」という言い方をするときは、その内面状況がどうなっているのかをよくよく吟味しなければならないことになる。
その辺のことを自覚してか知らずかは分からないが、親鸞はことごとく「親鸞」という言葉で、自分の状況を語っている。その「親鸞」は固有名詞としての親鸞であると同時に、「普遍名詞」の親鸞でもある。固有名詞としての親鸞は、他者と代替え不能の個であるが、普遍名詞としての親鸞は、他者と通底する個である。親鸞が「親鸞におきては‥」とか「親鸞が‥」と語るときは、孤絶した固有名詞でしか語っていない。しかし、その孤絶度が深いほど、それを聞いた人間は自分のこととして聞こえてきて、自分のこととして受け取ってしまうのだ。「お前たちは‥」と語ったのでは、それが通じていかない。むしろ、孤絶した固有名詞だからこそ、それを聞いたものは、自分のこととして聞けてしまうのだ。それを「孤絶度」という言い方で表現してみた。孤絶度が大きくなるほど、他者への伝播性が激しくなる。孤絶度が低いほど、他者へは伝わらない。だからと言って、すべて、「自分においては‥」「私においては‥」とだけ語っていればよいというものではない。意図的にそう語っていようとも、内面状況では「お前たちは‥」になっているのだから。まあとことん自分は、問題を他者の問題としてしか考えられない業を持っている。最初は、他者の問題として感じるしかないのだろう。しかし、その淵源をを尋ねていくと、それは自己につながっていたということなのだろう。またそうならなくては、〈真実〉に背いてしまうことになる。この世を生きる最終的基準は、〈真実〉か否かということしかないのだから。利害や損得や快不快や善悪だけでは、空しいことを人間は深いところで感じているのだ。