旧約聖書の「コヘレトの言葉」には「空の空、いっさいは空である。」と記されている。続けて「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と「空」の内容を語っている。この書が「異端の書」と呼ばれてきた意味が少し分かるように思う。いわゆる「神」に急進していくベクトルが圧倒的に弱い。ここのとことEテレの「こころの時代」で扱われているので、この書と伴走してきたが、ここに書かれている「虚無感」への感触が少し変わってきた。当初は、人間がどれほど富を築き権力を持っても、「なんの益があるか」「日の下には益となるものはないのである」と連続して言われると、空しさだけが感じられた。しかし、この虚無感と伴走していると少しずつ印象が変わってきた。コヘレトが語る言葉を人間は虚無感として受け取ってしまうのだが、それは受け取る人間の問題であって、コヘレトは淡々と事実を述べていただけだった。だから、たとえ虚無感で受け止めようがどうしようが、事実だけを人間に突きつける。そう突きつけられると、最後には「そうだよな。それしかないよな」と納得するしかなくなる。コヘレトは人間が見たくない「事実」を提起し、それを人間に「虚無感」として感じさせ、最後にはその虚無感に苛まれる人間に寄り添う言葉なのではないか。
コヘレトは「空」の内容を「時」でも語る。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時があり、働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」この文は詩であり、読む人間の中に刻々と深く「~時があり」が刻み込まれる。この「~時があり」は、ほんとうはここでは終わらない、人間がここにいて動いている間はつねに繰り返される。それが最後は「なんの益を得るか」で締めくくられる。これは仏教と通底する人間批判でもある。コヘレトはそれに続けて、「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」と。この「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」が面白い。最初は「わたしは~見た」と言っておきながら、最後は「見きわめることはできない。」と言う。まあこれは矛盾である。コヘレトは、「私は神のワザを見たんだが、最後までは見きわめられない」と言っているのだろうか。それならばあまり面白くはない。むしろ、人間が見たと思っているのは、人間が見たと思っているだけのことで、ほんとうは見ることなんかできないのだと解釈したほうが面白い。私も「阿弥陀さん」などという言葉を使っているのだが、そんなものを最初から最後まで見たこともない。人間が知っていたら恐ろしいことだ。まあ人間の見たことは、人間が見たと思っている程度のことで、ほんとうのことではないよと言っているのだろう。ほんとうのことは、常に目前にあって、人間には決して見えないようになっているのだ。見えないようになっているからよいのだ。見えたら人間は「絶望」するか「楽観」するかのどちらかの地獄に落ちてしまうからだ。だから注意しなければならないのは、「虚無と虚無感」の違いである。虚無は透明だが、虚無感は濁っている。