浄土宗が法然の八百年大遠忌記念出版として、2016年に『新纂浄土宗大辞典』を出した。そこの「悪人正機」の項目の一部に次のようにある。「悪人こそが阿弥陀仏の本願の正機(=第一次的な救いの対象)である」との意。その場合、善人は必然的に傍機(=二次的な救いの対象)となるので、換言すれば、「善人も救いの対象とはなるが、阿弥陀仏の主たる救いの対象は悪人である」とする考え方と言える。」まあ、たとえ事典にあるからといって、これが現在の浄土宗の共通理解であるかどうかはわからない。事典であっても、ある一人の執筆者の意見ということになろう。しかし、歎異抄第三条が問題にしている「意味空間」はそこにはないというとは言えそうだ。歎異抄は、悪人が第一次的な救いの対象で、善人が二次的な救いの対象だと言っているわけではない。その見方は、自分が「救いの対象」を横に置いて眺める発想になってしまう。歎異抄の主眼はあくまで、「お前は善人なのか悪人なのか、どっちだ」という意味空間にある。またそうやって受け止めなければ歎異抄はほとんど意味のないことを語っていることになってしまう。歎異抄の意味空間は、悪人をのみ救いの対象とし、善人は救いから除外するというものだ。これが深層の意味空間だ。そのために第18願文には「唯除」が付いている。親鸞は強烈に「雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわず(略)摂取不捨の利益にあずからずとなり」(『尊号真像銘文』)と述べている。いやいや、それではあらゆる存在を救うと誓っている阿弥陀さんと矛盾してしまうじゃないかと辞典の執筆者は思ったのだろう。それで悪人が目当てだが善人もやがて救われるのだと考えたのだろう。しかし、阿弥陀さんの救いは矛盾しているのだ。この矛盾こそが信仰の醍醐味なのだ。何で矛盾しているのかといえば、それはこの世に生きているのはあなた一人であり、その一人が救われるためなのだ。そのために、「お前は善人か悪人か」と迫ってくるのだ。この意味空間に入れば、この世には悪人などはどこにもいない。いるのは「疑心の善人」だけ。この「疑心の善人」に呼びかけてくださる愛語が「汝悪人よ」だ。善人こそが悪人なのだ。しかも、それは阿弥陀さんの呼び声にしか成り立たない表現だ。それを人間の自覚にはできないし、もししてしまったら間違ってしまう。自分が悪人だと自覚すれば、それはすべて造悪無碍になってしまうからだ。その呼び声が一度でも聞こえてしまったら、「悪人」という言葉に驚きも感動もなくなってしまうだろう。それで阿弥陀さんは人間の自覚にならないように、四六時中、呼びかけ続けてくれるのだ。それが阿弥陀さんの悲哀の伝え方なのだ。