本日はNHKオンライン講座の2回目だった。テーマは「悪人が救われるとは?」で第3条を中心に話した。歎異抄の語る「悪人」を巡って話したが、結論は「悪人」とはメタファーであって、私には分からないことだと語った。この「分からない」は、ただの「分からない」ではないのだが。まあ親鸞がどう考えていたかという話とは別の話だ。これは「ヨコの仏教」のセオリーだ。そのひとの表現の中に、〈真実のフォルム〉と共鳴するものがあるかどうかが問題なのだ。だから、「親鸞が考えていたことが真実だ」と考えているひとにとっては、違和感のある話だったと思う。問題は、自分と阿弥陀さんの関係だけだ。阿弥陀さんは〈真実〉の別名であり、人格神のようなものをイメージしてはいない。それはともかく、歎異抄の解説書を書かれているひとたちは、悪人を分かったことにして考えている。つまり悪人を定義している。しかし、ほんとうは悪人を人間が定義できないのだ。これは阿弥陀さんの仰せであり、呼び声であるからだ。だから阿弥陀さんのほうにのみ属する言葉で、人間には属さない。人間はそれを聞くのみだ。人間に聞こえても、それだからといって、「私のことを悪人というのだ」と受け取ってはならない。決して自分のことを悪人だなどど思えないのだから。自分のことを悪人とは思えないものを善人というのだ。その善人の偽善性に目覚ましめる阿弥陀さんの声が、「汝、悪人よ!」だ。ほんとうの悪を知っているのは阿弥陀さんだけなのだ。経典は「十悪五逆」などと人間の罪悪性を突きつけてくる。善人だと思っているだろうが、お前ほど悪い人間はいないのだとでもいうように。それは「自覚性」を促すためだろう。つまり、「他人事ではないぞ」ということだ。ほんとうはいくら「お前は悪人だ」と言われても、一向に悪人などとは思えないのが私である。生き物を食べる、つまり殺生が罪だと言われても、食べないわけにはいかない。ナイーブなひとはベジタリアンになるしかない。宮沢賢治がそうだったように。しかし、突き詰めれば植物であってもいのちがあるではないかと言われれば、人間は餓死して死ぬしか罪を償うことができない。自分が生きるということは、他者が生きるための食料を収奪していることでもある。そこまでいくと死ぬことだけが一番よいことになってしまう。そうやって自分のいのちを奪っていく方向性を「慚愧」という。慚愧が人間であることの証だとさえ涅槃経は言うが、人情で慚愧に溺れたら死ぬしかない。慚愧は人間社会ではよいことのようだが、自分から罪を引き算していく滅罪思想でもある。歎異抄的に言えば、「自力の罪」だ。それでは、悪人でよいのかと居直りたくなる。居直れば造悪無碍になる。居直らなければ善人になる。この二つを超えるのが「懺悔」だ。懺悔は自己と阿弥陀さんとの関係においてだけ成り立つことだ。親鸞に「恥ずべし傷むべし」と吐かせた力は何か。そこに「自己←→阿弥陀」関係の意味空間が広がっている。