「この世を超えている」と人間の口で語ってしまえば、それはこの世のことになってしまう。それは、「この世」を超えていない人間が、その人間の口で語ってしまうからだ。宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で、女の子とジョバンニの会話を書いている。
「だけどあたしたち、もうここで降りなきゃいけないのよ、ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに言いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃあいけないって僕の先生が言ったよ。」
「だっておっかさんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑いながら言いました。「ぼくもほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」
こんなやりとりを賢治は書いている。彼は、法華経信仰をモチベーションに書いているので、「この世」を超えた他界に往くよりも、「この世」に浄土を形作るほうがいいのだと言わせている。そのくだりに、「ほんとうの神さま」の問答が登場する。あなたの言ってる神さまはほんとうの神さまじゃないと否定するが、それを聞いている相手も、そんなんじゃないと更に否定できる。最後は青年が、「たったひとりのほんとうの神さまです。」と結論づける。この論理は「無限後退」することができる。あなたの言っている神さまはほんとうじゃないと否定する、その相手を無限に否定することができるからだ。この「無限後退」の論理がどこで超えられるかと言えば、相手も自分も「ほんとうの神さま」を知らないということ以外にはない。相手が知らないばかりか、相手を否定している自分自身も知らないという「平等無知」が開かれねばならない。人間の目は、相手ばかりでなく、なんでもかんでも相対化したいという欲望を持っている。それは「見る」という単純な器官で捉える視野そのものが貪欲なしに成り立たないからだ。「相手を見る」というこは、相手を貪欲の獲物に変え、貪欲の世界に引きずり込み、「見下している」ということだ。
仏教思想の遍歴の中で、いままで「釈迦一仏の覚り」を求めていたものが、「一切衆生悉有仏性」という思想を生んだのも、「平等無知」の促しかもしれない。一仏思想や一神教は、「無限後退」の論理になる。近頃、四歳の女の孫がよく口にする「~じゃない」だ。「これがほしいの?」と聞くと、孫は「じゃない」と答える。「それじゃあ、これがほしかったのかな?」と違うものを差し出すと、またまた「じゃない」と言う。無限に「じゃない」が続く。これは「無限後退」だ。それが「平等無知」へと開かれたのが「一切衆生悉有仏性」ではないか。つまり、あらゆる存在に仏性があるということは、あらゆる存在に「ほんとうの神さま」が宿っているという見方につながる。しかし、その神さまを誰も、ほんとうには見ることができないのだ。