悲愛の刃

自分は、いつ、いわゆる「真宗」に出遇ったのだろうか。自分が記憶している過去をたどってみると、21歳だった。それから、数えると、現在は45年が経っている計算になる。そして近頃思うのだが、自分はどうも「真宗」に出遇ってから、どんどん「真宗」に出遇う前の自分に戻っていっているようだ。つまり、「真宗」を知らなかったときの自分になっていくように感じる。言い換えると、いままでは「選択」が生きる基調音だったが、近頃は、「収斂」が基調音になっている。「選択」とは法然の基調音だ。何が真実か、何が虚偽かを峻別することが生きる基準になっていることだ。だから、「真宗」では位牌は用いず、法名軸か過去帳を用いるのが正しいと言っていた。線香は香炉に立てず寝かせるのが正しいと、それが教団の作法としては正しいことになっている。それは些細なことだが、その基調音は「選択」の目で世界を見ることになる。近頃はその目が溶解し出して「収斂」になってしまった。「収斂」とは、いままで「選択」の目で排除してきた「偽」が自分の内部に広がってきて、自分いっぱいにまでなってしまった目だ。「収斂」の意味に、「散布的に位置していた複数の物を一カ所に集める」がある。それは同時に「拡散」に転じる。だから目を外に向けてみれば、世界全体にまで広がっていた。この世界は自分が無限にまで「拡散」してしまったものだった。そうなると、「選択」の目は役に立たなくなった。もはや、何が正しく何が偽なのかが曖昧になってしまった。私が目にしている、あるいは感じているもので、何一つとして不必要なものがなくなってしまった。ここで「意味」という言葉を使いたくないのだが、無理矢理に使えば、「この世に無意味なものがなくなってしまった」という感覚だ。自分にとって都合のよいものと悪いものは厳然としてあるのだが、それも全部引っくるめて、不必要なものがない。この世界全体が自分の身体になってしまったようだ。そこで改めて「真宗」とは何かを問えば、それは「自分=世界」を、まるごと「そうではない」と否定してくれるものと言えようか。人間は自分の感じたことや思ったことにしか手応えを感じられないようにできている。しかし、そこには「真実」はないのだと否定してくる作用、それが「真宗」であるらしい。この否定作用は氷の刃のように見えて、実は温かい悲愛の刃だ。人間の思ったところには、決して「真実」はないのだと、思いからまるごと解放してくれるのだから。