〈言葉〉は時空を超える。2005年に処女出版した『新しい親鸞』を読まれた京都のひとから、「永年、小生も感じ続けていた幾つかの疑念が氷解し、深く感謝しております」と手紙を頂いた。出版から16年目に、初めて感想が届くこともあるのだ。これは〈言葉〉が時間と空間を超えたことを意味している。「仏教」は2500年前にお釈迦さんの悟りから出発したと言われているが、この歴史の中で生まれた〈言葉〉たちが、時空を超えて現代まで届いているのも、同じことだ。ただし仏法の「真実性」は、その〈言葉〉だけにあるのではない。その〈言葉〉と出会った人間の内部で確かめられることだ。クリステバは「書かれたものを眺めるのは、死を見つめることなのである」と言った。確かに表現されてしまった〈言葉〉は死体と同じだ。もはや動かない。仏教の全経典群をひと口に「八万四千巻」と言うが、それは八万四千の死体でもある。ところが、この死体を眺める人間がどんどん現れてくる。そしてその死体が暗示している意味空間を求め出す。新たな時代の人間が死体と出会うとき、そこに新たな意味世界が開かれる。つまり、人間がその〈言葉〉に触れたとき、死体であることをやめ、「感謝」という感情を生む。「疑念が氷解し」たのは知的なことだが、それだけではない。そこに「感謝」という感情を生み出す。これが〈言葉〉が死体をやめた証拠だ。〈言葉〉が、それに触れた人間の感受性までを変えていく。2005年に朝日新聞は「ジャーナリスト宣言」というものを出した。「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも、私たちは信じている、言葉のちからを。」だ。〈言葉〉は情報を伝える伝達手段だとだけ思っている人が多い。ところがそうではない。人間は〈言葉〉という触覚で世界を受け取っているから、〈言葉〉は第二の皮膚である。だから、逆に〈言葉〉が変われば世界が変わる。世界を変えるには〈言葉〉が変わらなければならない。
その人は、いくつかの質問も書いていた。そこには、「第18願と第20願の構造の違い」を教えてほしいと書かれていた。私は、そこに書かれている「願」という文字は、「意味空間」のことだと返信した。親鸞は『教行信証』(化身土巻)の「三願転入」と呼ばれる箇所で、第19願から第20願へ、第20願から第18願へと転入するように並列的に述べている。ソシュールが言うように文字は「線状性」を免れないから、どうしても並列的に述べる以外にないのだが、これは立体的というか重層的なことなのだ。第19願の意味空間にいるひとには、第18願が見えない。第18願の意味空間が開かれて初めて、自分が第19願の意味空間にいたことが自覚化される。親鸞は「三願」という修道論的関心で述べているが、ほんとうは「二願」でよい。つまり「真実が虚偽か」という決判でよいのだ。そうすれば第19願は第20願内部のことになる。問題は「真実か虚偽か」だ。第18願の言葉を使えば、「唯除」されるものが第19願・第20願である。第18願文の末尾にある「五逆・誹謗正法」とは、仏を必要しなくても生きていけますという「自力のこころ」のことだ。このこころの主が第19願・第20願の意味空間である。しかしここが私の本来の〈居場所〉だ。それを唯除してくる「真実」と出会う場所だ。この「存在の零度」から一歩も動いてはいなかった。