「仏教一般」は、違った意味で「デス・ハラスメント」だ。死を見たくないのが人情なのに、その見たくない死を、目の前に置き、それと対面させる。嫌だ嫌だと言うのに、その嫌だ嫌だという手を払いのけるようにして死をこすりつける。これは間違いなく「デス・ハラスメント」ではないか。記憶違いかもしれないが、どこかの市がコロナ感染者に向けて送った封筒の裏に、葬儀社の広告が印刷されていたということが問題視されていた。それに対して、悪気はなかったが配慮が足りなかったと市は謝罪した。死が臨床のギリギリの場面にあるとき、死の連想を促すものは排除される。それが人間の世界というものだ。人間界は死を排除した上で成り立つ「共同幻想」だからだ。だから、「仏教一般」が死を想え、老病死を想えと言い得る場面は、〈のほほんとした日常〉でしかない。臨終の場面で、死を想えと言うことは憚られる。だから、人間が言えば「デス・ハラ」になるものを、仏さんという仮想現実を立てて、それに言わせているのだ。阿弥陀さんという仮想現実から、人間に訴えかけてくるものとして「死を想え」が辛うじて成り立つ。その仮想現実がなければ、「死を想え」と発言する人間が傲慢になってしまう。「死を想え」と発言しているお前自身はどうなのか。お前自身は、「死を想え」なんていうことを、これっぱかしも受け入れてはいないではないか。それを忘れて「死を想え」と発言してしまえば、それは虚偽になる。それは決して人間が口にできる言葉ではない。これが、間違いのない人間の〈居場所〉だ。そこから一ミリでも動いてはならない。
だから「仏さん」とか「阿弥陀さん」は仮説されたものである。仮説(けせつ)とは、「真理は言説を超えたものだが、それを仮に言葉で表す」という意味だ。そのように述べると分かったように思うが、人間が人間を超えたもの、つまり「言説を超えたもの」をどうして知りうるかという疑問が残る。果たして、人間が「人間を超えたもの」と言いえるのかということだ。人間が「人間を超えたもの」を知っているということなら、その人間は「人間を超えたもの」と同質でなければならない。やはり、人間が言いうる「人間を超えたもの」は、所詮人間内部のことではないのか。ここまで来て、曖昧な「人間を超えたもの」というイメージを自分に問うてみた。そうしたところ、身の回りを見渡してみたら、「人間を超えたもの」だらけだった。1998年に真鶴岬で拾ってきた石を文鎮として使っているが、これは自分を超えたものだ。自分がこの世に存在する以前から存在していたものだろうし、少しも人間の手が加わってはいない。まして自分がこの石を生み出すこともできない。いま文章を書いているパソコンにしても、自分が作ったものではないし、誰かが作ったものであっても、その材料や部品の素材は天然のものだから、人間を超えている。いわゆる「環境」は人間を超えたもので成り立っている。そうして「環境」に対する「主体」に目が行った。この「主体」つまり自分も、自分が作ったものではない。身体は自分を超えたものだ。そういう自分を超えた総体全体が、「人間を超えたもの」だった。「阿弥陀さん」という言葉のイメージはどうしても、「身体をもったもの」となってしまうが、ほんとうはそういう「人間を超えたもの」の総体のことなのだ。だから人間がイメージする「世界」にも近いものだ。浄土教が、真理の仮説として主体をイメジ的に語れば「阿弥陀仏」になるし、世界をイメージ的に語れば「浄土」になるようなものだろう。二つは同じものの違ったイメージ的表現なのだ。ここまで来ると、「人間を超えたもの」のイメージがずいぶん柔軟になってきたようだ。
だから親鸞も「この如来、十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光仏ともうす。」(一念多念文意)とか「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。」(唯信鈔文意)とイメージを膨らませて語っているのだろう。つまり、この世の環境も身体もすべてが、「人間を超えたもの」から生まれたものだというイメージだ。ところが、それは正しいのだろうが、その「人間を超えたもの」と関わる接点が欠落している。専門用語で言えば、「南無」と「阿弥陀」の接点だ。その接点を暗示しているのが、「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし」(愚禿悲嘆述懐和讃)だ。超訳すれば、「人間を超えたものがほんとうだと思ってきたが、私は人間を超えたものと同質のこころはこれっぱかしもない」だ。この「これっぱかしもない」と言うのが、自分で自分のこころを反省した言葉ではなく、自分の〈外部〉からの促しというところが肝心なところだ。これは〈永遠の否定性〉だ。この〈永遠の否定性〉に、永遠に晒され続けるところが接点なのだ。決して、人間に「もう済んだ」と過去形で物事を語らせない運動体だ。これをイメージ的に言えば「救い」と言う。過去形からの解放だ。前に戻って言えば、この〈永遠の否定性〉だけが、「死を想え」と発言できる権利を持っている。あらゆる人間は、この〈永遠の否定性〉から、そう要求されているのだ。〈永遠の否定性〉だけが、「デス・ハラ」を人間に突きつけるのだ。まだ死んだこともない人間が、「死」を知っているという傲慢を打ち砕き、「死」を過去形から救い出すのだ。