「デスハラ」という漫画があるらしい。フルネームは「デス・ハラスメント」だ。つまり、「死という嫌がらせ」という意味になろうか。漫画は、将来、安楽死が認められたらどうなるかという仮想現実を描いているという。老人たちは、自分たちも子どもに迷惑を掛けないように、そろそろ安楽死を考えないとねという台詞があるらしい。「ひとに迷惑を掛けないように」という考えは、誠実でまっとうな思想のように思えるが、これはナチズムの考えと同じだ。この考えは、すでにひとは迷惑を掛け合って存在していることが見えていない。迷惑を掛けないような存在はこの世にはない。それであるのに、自分は迷惑を掛けないでも生きていけるのだという傲慢さがある。まあこの考えは「若さ」と「有用性」だけを善とした見方だ。しかし、こういう書き方は、そういう問題が自分とは無関係に、向こう側にあるようにしてしまう。そうではないのだ、自分自身のこころの奥底に、その考え方がどっしりと根を張っている。つまり、自分が自分のいのちに対して、そういう傲慢な態度をとっているのだ。そもそも、自分のいのちは自分の思いを超えているのに、あたかも自分の所有物だと錯覚している。本当は、いのちが先、思いは後だ。それを私は「自分は人生の主人公ではない」と表現している。主人公はほんとうは、誰なのか分からないのだ。自分という思いは、思っている限りの範囲内のことだから。そうやって自分のいのちについて考えていると、細部でいのちを支えているものたちに思いが届く。止まることのない呼吸。この吸う息に感じる空気。吸い込むとひんやりと冷たいものを感じる。ただ、これを空気とも思わずに、無意識に吸い込んでいる。これは「有意味」でも「無意味」でもない。そんなことを跳ね返してしまうほどのものだ。私は、まだ自分のいのちに出会っていなかったのではないか。分かったことにしてしまっていたが、ほんとうは分かっていないのだ。まだ出会っていないのだ。待てよ。一生涯、出会えないのかもしれない。それも、またよし。とにかく、このいのちに引きずられて、いのちの後をトボトボと付いていくしかないのだ。