昨日、ポテトサラダを作った。作ったと言っても、連れ合いの指示通りに具材を混ぜ合わせただけ。ジャガイモとキュウリとゆで卵が入った鍋にマヨネーズを絞り込み、混ぜ合わせるだけ。しかし、出来上がったポテトサラダはことのほか美味かった。自分が作業に加わった料理は美味い。これは小学校の家庭科の時間に作った味噌汁とご飯が美味かったことに通じている。学校で食べた味噌汁は、いつも家で食べている味噌汁と違っていた。これは単なる味の問題ではないだろう。そこに「自分」という存在が加わると違った味になる。それは「自己チュー」という観念の問題だろうか。つまり、自分を愛しているから、自分の作ったものが美味いと感じるだけなのだろうか。それだけが理由なのだろうか。いやたとえ、「自分」を自分が愛していると言っても、なぜ自分は「自分」をそこまで愛せるのだろうか。それにはもっと深いものが関係しているように思える。それは、いわゆる「自分」と呼ばれている領域だが、その領域は自分が考えている以上に、未知未開だということだ。「自分」を自分は分かったこと、自明のこととして生きているが、果たして自明なのか。実は「自分」を自分は安く見積もりすぎ、見くびっていたのではないか。そんな問題提起をしてくれたのが、今回のポテトサラダだ。「自分」はものすごく大事なものなのだろう。自分が愛しても愛しても、それでも届かないくらいに。なぜなら「自分」は自分を超えているものだから。阿弥陀さんから賜ったものだから。親鸞は「自力」を「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(『一念多念文意』)と定義している。いかにも「自力」が悪いこことでもあるかのように。ただし、これは我々のこころのありのままを表現したものだろう。「自力」はやめようにもやめられないこころの有様だ。なぜ「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」のかは述べられていない。それは我が思い以上に、わがみをたのませるのも、わがこころをたのませるのも、我を超えたはたらきだからである。「自力」を「自力」として成り立たせていたのも阿弥陀さん、つまり「他力」だったのだ。そうするとポテトサラダが美味いと、感じさせてくれたもの阿弥陀さんのお陰だったということか。