昨日、初めてのオンライン講座を体験した。私は南青山にあるNHKカルチャーセンター青山の事務所奥にある、放映室へ向かった。電車で行こうとしていたら、連れ合いが車で行くように勧めてきた。私は「大丈夫じゃないかな」と言ったら、連れ合いは、「若い人は大丈夫かも知れないけど、もう若くないんだから」と言われ、それに従った。テーマは「いま親鸞が語るものー歎異抄を読むー」だ。10時半に放映が始まり、なにせ初めての体験で緊張していたが、段々とそれも溶けてきて、法話ゾーンに入ることができた。ゾーンに入れれば、通時的時間は超える。気がつけば、終了10分前になっていた。カメラだけを前にしていても、ゾーンに入れることが分かって嬉しかった。まあ、話の内容は、いつもと同じようなことなんだが、「同じようなこと」であっても、「同じ」ではないという醍醐味がある。これが仏法の話の面白いところだ。自分も話していて、表層の世界から深層の世界に「たましい」があったことを、終了後に感じ取った。あの時間が、仏法の時間なんだろう。これが「法味」なんだ。ひとは、日頃、日常生活という時間に追われている。さて晩ご飯をどうするか、という日々迫ってくる緊急の課題に追われる。これがミクロの時間だとすれば、仏法はマクロの時間を開く。マクロの時間とは、宇宙が始まる前、そして宇宙が終わった後の時間だ。象徴的な言葉で言えば、「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまえり」という時間だ。このマクロの時間の中で、自分の「いま・ここ」を見つめ直す。するとミクロの時間が違って感じ取れる。大事だと言えば、ミクロの時間なんだが、それだけで人間は満たされない。親鸞は「火宅無常の世界は、よろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに」と言う。ミクロの時間を、そうご覧になった。しかし、そのように見せたものは、「ただ念仏のみぞまことにておわします」という鏡である。この鏡がなければ、ミクロの時間はそのように映らない。間違っても自分のこころに映してはならない。自分のこころは、悲観するか楽観するかの煩悩内世界だから。「ただ念仏」という鏡は、「まことあることなき」と否定を通して、「まこと」を教える。ミクロの時間は、二度と同じことの繰り返しのない出来事で満ちている。その時何を思い、何を行為しても、それは今世紀最初で最後の出来事だ。それが「ただ念仏」に映った、「まことあることなき」時間だ。たかが娑婆、されど娑婆だ。
【第2回目のオンライン講座は2月18日午前10時30分から12時まで】