布団の中で、目が覚めた。これが私がこの世に誕生した、仕方だった。今日は、私の本当の誕生日だった。布団から起き出して、トイレに行った。それもこれも、みんな、阿弥陀さんの御用だ。ひとつも、自分の用ではない。させられてしていることだった。それから、ご飯を食べた。この行き着く先は、「絶望的な死」なのか、それとも「阿弥陀さんの世界」なのか。そうやって問いかけられた。残念なことか朗報か、人類は、知ってしまったのだ。「死」を。それは本当か?本当に知ったのか?あなたは阿弥陀さんがご存じのように知ったのか?と問い返される。この〈反問性〉が、私を「知っていること」から解放する力だ。そうやって開かれて、改めて目の周りを見たら、ここは阿弥陀さんのトンネルの内部だった。すべてが阿弥陀さんを指さしている「荘厳」だ。尾長の集団が、境内の木に止まった。仲間の鳥同士が何やら絡んでいる。それらもみんな「荘厳」だ。「荘厳」とは人間が意味づけすることを拒む現象だ。尾長も、本当は何がしたいのか、どこへ行こうとしているのか、自分では知らないのだ。これは私と一緒だ。これが「一切衆生」の大地だ。ただ人間は、貪欲というアンテナを通してしか、世界を、つまり阿弥陀さんのトンネルを見ることができない。自己保身という利害関心を通してしか世界と関われない、恥ずかしく、悲しい生き物だ。そうやって教えてくれるのも、阿弥陀さんだったのだ。やはり自分は、人生の主人公ではなかったようだ。