親鸞は「現世利益和讃」を15首書いている。15首の内、10首に「南無阿弥陀仏をとなうれば」というフレーズが繰り返される。現世の利益として、「七難消滅」とか「この世の利益はきわもなし」とか「炎魔法王尊敬す」とか「悪鬼神 ことごとくおそるなり」とか、人間の欲望に沿う形で利益を上げている。その利益はすべて、「南無阿弥陀仏をとなうれば」ということが条件になっている。この言い方は、いかにも「親鸞」らしくないと思える。この和讃を捉えて、親鸞は「真言密教」のよき理解者だと言う人もあるほどだ。親鸞がなぜこのような和讃を書かれたのか、その必然性がよく分からない。人間の内面性をとことん追求する親鸞が、そのことに目をつぶって、とにかく南無阿弥陀仏を称えなさいと表現することに違和感を感じる。かつて関東で伝道したときのやり方なのか。親鸞が伝道する以前、密教系の信仰に親しんでいた人々が多かったと聞く。その人たちには、こういう伝え方もありだと思ったのか。理屈はどうでもよい、何はともあれ念仏に親和性を持たせようとしたのか。
とにかく、親鸞が本心から「七難消滅」などとは考えていなかったであろうことは分かる。それが次のことから窺える。「南無阿弥陀仏をとなうれば」の他に多いフレーズが「よるひるつねにまもる」だ。念仏を称えるひとを、炎魔法王だろうが、天神地祇だろうが、無量の諸仏だろうが、皆が総出でまもって下さると書いている。これも不安な人間にとっては、喜ばしいことこの上ない表現だ。ただ何をまもるのかという対象を述べていない。その対象が曖昧だから、それを聞いた聴衆は、自分たちの内面に、自分たち好みの対象をイメージしたのかもしれない。親鸞は、その対象を、したたかに二つ提出している。それが「念仏のひとをまもるなり」と「真実信心をまもるなり」だ。人間のああしてほしいこうしてほしいという欲望をまもってくれるわけではない。「真実信心」をまもるのだとキチッと提出している。これは善導の「行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。」(観経疏)から来ているのかもしれない。しかし、まもってもらわなければならない「信心」とはどういう信心だろうか。それは人間のこころがぐらつかないようにという意味なら、そんなものは初めから「信心」ではない。正しく言い直せば、「信心をまもる」のではなく、「信心がまもる」のではないか。外に自分を攻撃する害敵を作り上げ、内に守護の神々を作り上げる妄念から自分をまもってくれるものが「信心」ではないのか。