腑分けの刃物

今朝のお朝事の和讃は、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」(浄土和讃・諸経意)だった。ここを上げているとき、私の固定観念がグルグルしてきた。まあ「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう」は華厳経に書かれていることだから、そう述べたのだろう。しかし、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとし」というときの「如来」とはどういう存在なのだろうか。固定観念の「如来」は、人物のようなイメージではないか。果たして親鸞の思い描いていたイメージはどんなものだったのだろうか。恐らく、「如来」は価値的に「人間」より優れているもので価値が上位にあるもののイメージだろう。その上位にある存在と等しいのだから、素晴らしいことだという意味になろう。
その次の「大信心は仏性なり」もまだ納得できる。「仏性」とは「仏の性質・仏に成る可能性」という意味で、それが人間に先天的に付与されているものではなく、「信心」がそれなのだと言っている。仏性論は涅槃経のテーマだが、それを親鸞は「信心が仏性だ」と受け取った。つまり、信心は如来にあり、如来から回向される作用こそが「仏性」だと受け取ったのだろう。
最後の「仏性すなわち如来なり」が不可解だ。柏原裕義さんの『三帖和讃講義』には、「信心を得れば仏性を開発した如来と等しい」と解釈されている。しかし、如来はすでに仏性そのもののことだから、「仏性を開発した如来」というのはおかしいようにも思う。如来はすでに「仏性」そのものではないか。柏原さんの中では、如来がこれから仏性を開発するものとイメージされているのかもしれない。それもこれも、「如来」という言葉の意味が様々なイメージを引き起こしてしまうからなのだろう。親鸞は「従如来生」(如従り来生し)と『教行信証』(証巻)で書いているから、人物のイメージでなく、作用をイメージしていたのかもしれない。まあいずれにしろ、「仏性」も「如来」も「信心」も、どれを取っても、人間の内部に無いことだけは確かだ。それらと自分とが、あたかも研ぎ上げられた刃物でもって、見事に腑分けされるところが、グッと来るところではないか。