コヘレトの言葉

Eテレの「こころの時代」で旧約聖書の「コヘレトの言葉」を主題に放映している。(次回は第4回目で1月17日)批評家・若松英輔と牧師・小友聡が対談形式で展開していく。前回は「時」がテーマだった。「コヘレトの言葉」の章だが、日本聖書協会1955年改訳では、「伝道の書」とあり、1993年新共同訳では「コヘレトの言葉」と訳されている。これは「コヘレト」が「集める」という意味らしく、皆を集めて語るから「伝道の書」と訳されたようだ。新共同訳では、片仮名でそのまま「コヘレト」としたようだ。これは、「伝道の書」という訳よりはいい訳だと思う。しかし、冒頭の「へベル」の訳が頂けない。そこには「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」とあるが、1955年改訳版には、「伝道者は言う。空の空、空の空、いっさいは空である。」となっている。これはこっちの訳の方が数倍いい。まあ「へベル」を「空」と訳すか、「空しい」と訳すか。そこに翻訳者の意味空間が表れている。「空しい」は消極的で絶望的なニュアンスだが、「空」は超越的で幽玄な感じを受ける。「空」と言えば、『般若心経』の「色即是空 空即是色」が有名だから、仏教の専売特許のように思っていたが。そうではなさそうだ。若松英輔は、それは手のひらを広げたときの指の違いだとたとえていた。掌は通底していると。それはその通りだと思った。西洋一神教か仏教かを超えて、人類にとって普遍的な要求が「空」という言葉に込められているのだ。だから、まどみちおさんにも「リンゴ」が生まれたのだろう。「リンゴを ひとつ ここに おくと リンゴの この おおきさは この りんご だけで いっぱいだ リンゴが ひとつ ここに ある ほかには なんにも ない ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ」。なんという素晴らしい詩だろうか。ここに「へベル」の真髄が表現されているように思う。リンゴが、そこに一つあるという。絶対的な存在の宣言だ。リンゴのフォルムは、このリンゴの大きさでいっぱいになっている。まどさんが見ているリンゴが、リンゴのフォルムにピッタリと重なっている。もしここにもう一つリンゴがあったら、ぶつかってしまい、このリンゴはここに存在することができない。ということは、ここには「空」というリンゴのフォルムがあることを証明している。ここにリンゴがあるためには、「空」というものがなければならない。だから、このフォルムに重なったリンゴは、有ることと無いことが重なった姿なのだ。有るということは、「無い」というフォルムがなければ存在できない。有るは、「無い」に支えられているのだった。色即是空の空は、存在の否定だが、空即是色の空は、存在の肯定を表す。ここまで書いてきて、本当に書きたかったことからドンドンずれてしまうので困っている。本当は、「時」のことを書きたかった。コヘレトは次のようにも言う。「すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、探すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」と。
すべては「時」においてここなわれるのだ。「時」を離れて人間は存在できない。最後の「働く者はその労することにより、なんの益を得るか」と言っているが、これでは一生が徒労だと言わんとしているようだ。若松は、人間が絶望するときには、どこかで分かってしまっていることがあるというようなことを語った。正確ではないのだが、確かそう言っていた。これも大事な指摘だと思った。それは次のコヘレトの言葉から導き出される。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」と。人間は神様がされたことをまったく知らないと言うことは、人間が絶望するときに、分かってしまっていることを手放せと言っているのだろう。それがどんなことであろうとも、それは神様がなされることであって、人間の当てが外れようがどうしようが、そんなこととは無関係なのだと言っているのだ。絶望だって、ただ人間の当てが外れただけのことだろうと。ということは人間が「知っている」ということから絶望はやってくることを教えている。これは親鸞の「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という歎異抄の表現と同じことを語っているように思える。「コヘレトの言葉」は異端の書とも言われているそうだが、一元の価値基準から語られてはいないので、そう受け取られたのだろう。西洋一神教とか仏教とかが生まれる、それ以前のところに根を持っているようで実に興味深い書である。