景色の悲しみ

まどみちおさんの詩に「けしき」がある。
「けしきは 目から はなれている
 はなれているから 見えて 見えているから けしきは そこに ある
 あの雲の下に つらなる 山々の けしき Sのじをかいて 海へと はしる 川の けしき 
 けしきの うつくしさは ひかるようだ よんでいるようだ いたいようだ 
見るものから いつも はなれていなければならないからだ‥‥
自分が そこに ほんとうにたしかに あるために‥‥」
この詩をどう受け取るか。私には、親鸞が「第20願」という問題で直感したものを感じ取れる。「第20願」の問題で、象徴的に出てくる言葉が、「辺地・懈慢・疑城・胎宮」だ。これらは、偏った信仰の比喩表現である。「辺地」は、阿弥陀さんの浄土のど真ん中に生まれるのではなく、辺鄙な場所に往ってしまう問題。「懈慢」は、偏った信仰にとらわれている人は、こころが「あなどり」や「おこたり」や「傲慢」に染め上げられているという問題。また「疑城」は、偏った信仰のひとは、こころが疑心暗鬼になり、閉鎖的なこころの世界に閉じこもってしまうという問題。そして最後が「胎宮」だ。これが「けしき」で語られている問題性だ。「胎宮」とは、阿弥陀さんの子宮の中という意味だ。赤ちゃんは、お母さんのおなかの中が一番快適だ。偏った信仰のひとは、阿弥陀さんのおなかの中に内包されている赤ちゃんのように、ぬくぬくの信仰だ。それは大変結構なことじゃないかと言われそうだ。しかし、「けしき」とは違う。自分から離れていないではないか。お母さんのお腹の中は快適なところではあるが、何が問題かと言えば、親子の対面ができないことだ。目と密着していれば、景色は見えない。悲しいことだが、目と離れていなければならない。それが「いたいようだ」ではないか。ほんとうは一心同体でありたいのだ。阿弥陀さんもそう願っている。「胎宮」でいいじゃないかと。ただ、それではダメなのだ。「自分が そこに ほんとうにたしかに あるために‥‥」は。阿弥陀さんから生み出されて、親子の対面をしなければ、私が私になれないからだ。これは母なる阿弥陀さんから流れ出した慈悲の涙だ。痛いのだ。痛いけれども、母体から生み出さざるを得ない。私を私にするために。お前には〈真実〉はないと、へその緒を切って一人前にするために。そうやって阿弥陀さんから生み出されて、初めて阿弥陀さんと一心同体だったことを教えるのだ。ぬくぬくの信仰から、覚醒の信仰へと目覚ましめるために。