「聚」を巡って

「聚」という言葉が気になった。漢和辞典には「多くの人。あつまる。あつめる。あつまり。集まった人。なかま。」などの意味が書かれていた。これが、阿弥陀さんの本願文の第11番目に出てくる。「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。」と。たとえ私が仏となったとしても、私の治める国の人たちが、正しく定まったなかまに入り、必ずさとりに達しなければ、決して悟りを開かない、というような意味になろう。親鸞は、それを敷衍して、「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。」(『教行信証』証巻)と記している。ここには救いが個人的な出来事ではないことが暗示されている。「大乗正定聚の数に入る」という言い方は、自分が大乗のなかでも、正しく信心が定まっている人たちのなかまに入るという意味だろう。自分一人が、正しい信心に定まればよいという言い方ではない。わざわざ「なかまに入る」という言い方が面白い。これは、「サークルに入る」とか、「組合に入る」とかいうイメージとはまったく違う。個人の内面に信を確立するのではなく、「向こうにいるなかまに入る」ことが信だと言うのだ。いままで、自分の内面に何かを確立しようと考えていた思いが解体されているようだ。これは「浄土教」といわれる系譜が、仏教思想の中に誕生した経緯と共鳴している。「浄土」という言い方も、「なかまに入る」という言い方も、問題は「場所」なのだ。つまり、個人の内面に何かを確立しようとする思いが解体されて、なかまに入るように呼び出されているということではないか。自分がなかまに入ったと思ったなら、それは間違いだ。そうではなく、つねになかまに入るように「なかま」から、また「浄土」から呼びかけらる場所を与えられることではないか。