年末年始は、「時」がテーマだ。年末には今年を振り返り、年始には今年を予見する。大晦日から元日に「時」が改まることで、何かが変わったような気になる。電卓の「AC」ボタンを押すような、ソロバンで「御破算で願いましては」と言うような、いままでの「時」をリセットするような感覚になる。この「時」とは、〈一人一世界〉の「時」である。ほんとうは、自分にしか感じられないのが「時」だ。客観的な「時」はあり得ない。どこまでも主観的なものが「時」だ。でもアウグスティヌスが言うように、「時間とは何かを問われるまでは知っていた。しかし、それが問われた途端に分からなくなる」ものである。だから、長くもなり短くも成る。さらに私たちは人生というものをも「時」ではかろうとする。ほんとうははかれるものではないのに、はかってわかったことにしようとする。昨夜のお通夜でも、仏さまから問われた。
家族はコロナのために、病床でなかなか母親に会うことも叶わなかったと。それで可哀想だったと遺族は語った。それを聞いたとき、ほんとうに可哀想なのは故人ではなく。可哀想だと悲しんでいる遺族だと思った。人間は他者のために涙を流せない生き物だから。自分のためにしか泣けない、傲慢な生き物だ。だから、さて自分は死をどう受け止めるのかと、それだけが問われているのだ。儀式を執行している私自身が、どう自分の死を受け取るのか。そのことだけが問われている。「時」が問われるとはそういうことだ。もう済んだとは決して言わせない反問性の刃が固定観念を砕く。砕かれることで、まったく未知なる「彼岸」に触れさせる。そこはひかりの世界でも、また闇の世界でもない。