「生きよ」は圧迫感

「生きよ」という言葉は、どん底にあっても、なお生きようとしているひとにとっては朗報だ。
しかし、生きる意欲が、ゼロにまですり減っているひとにとっては、圧迫ではなかろうか。
生きよと呼びかけられるほどに、その励ましは重くなる。
 生きることへのエネルギーがすり減っているひとには、無理して生きよと呼びかけてはならないように思う。
それでは、死んでもいいのか!と言う言い方もあるが、必ずしも、そういうものでもない。
人が人に対して、死んでもよいなどとは、決して言えない。
また人が人に対して、生きよとか、死んでもよいとか、言える立場には決してない。
そもそも、人間はまだ「生きる」ということ自体、どういうことなのかを知らないからだ。
えっ、生きることは、どういうことかを知らないだって!そんなことを言う前に、もうすでに生きているじゃないかと反論したくなる。そういうひとは、もう「生きる」ことを知っていると思っているから、幸せなひとだ。
ただ、その「生きる」は、「死ぬ」の裏返しの「生きる」じゃないか。
「死ぬ」の裏返しでない「生きる」はまだ知らない。
高村薫が言うように、「死んでもいい、だったら生きてもいいじゃないか」と言うときの「だったら生きてもいいじゃないか」の「生きる」は、どういう構造だろうか。
それは、「生きる」と「死ぬ」が裏表の関係ではなく、両者の境界が溶解していることではないか。
簡単に言えば、「生きる」とはどういうことか、「死ぬ」とはどういうことかが、不可思議に溶けていることではないか。
「生きる」ことのほうが、「死ぬ」ことよりも上位にあるようではダメなんだ。両方ともに、まだ体験したことではないからだ。
「生きる」ことが未だに未知のことだとなってみれば、食べるとか、話すとか、歩くとか、呼吸をするとかも、みんな未知のことなのだ。そうやって存在が〈零度〉に近づいていくと、「当たり前」が溶解する。〈いま〉は、「永遠の過去」と「永遠の未来」とがぶつかることによって、辛うじて生み出された奇蹟だったのだ。