安田理深先生が、こんなことを述べていた。
「噫弘誓の強縁、多生にも値い叵く、真実の浄信、億劫にも獲叵し」と、「叵」の字でいわれてある。一応は難の字だが、更には「叵」の字である。もとは善導の用語だけれども、難は易に対する、易行の用きに対するもの。しかしそれだけが難という意味であるならdifficult(困難な)というだけのことである。そうでなしに、さらに「叵」という意味がある。これは不可ということをあらわす。impossibleをあらわしている。不可能ということ。こういうことをくぐって、難信というときには、だからある意味では不可能が可能になった、というような意味を持っているのである。信じたままがやはり難信である。信を得たままが得難い、難信の信という意味をもっている。」(『安田理深選集』第15巻上p182)
ここに「難」の系譜が述べられている。それを親鸞は「正信偈」で「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とも述べている。
「難」はdifficultだが、「叵」はimpossibleだという。「叵」の字形は、「可」をひっくり返した形で、絶対に不可能を意味する。だから、「難」の字も、「易に対する難」と、「叵と同意味の難」があると考えた方がいい。それはともかく、「叵」は絶対に不可能だから、弘誓に値うことも、真実の信心を獲ることも、絶対に不可能だと親鸞は言っている。こういう表現を見ると、「そんなに難しいことなのか」と私はたじろいでしまう。しかし、そういう受け止めをする「意味空間」は、自力の意味空間だ。自力の意味空間とは、「易に対する難」だ。親鸞の言うのは「叵」だから、その受け止めは間違っている。親鸞の言う「易行」とは、易しい行で誰でもできるのだから少しずつやれという意味ではない。少しでも、そこから動くな、何もするな、ということだ。呼吸もするなということだから、自分が「零度の存在」にされてしまう。すべての動詞的関心が遮断される。それが「叵」だ。そこに直面させられると、今から未来へ向かおうとする意識が解体され、未来から今へと開眼される。つまり、これから弘誓に値うわけでもなく、またこれから真実の信心を獲るということでもない。既にして、弘誓の中に、そして真実の信心の中にいたことを強制的に教えられる。「難」と聞いて、「難しいことなのか」と受け止めていた自力が死んで、向こうから「零度」が開かれる。それは別の言い方をすれば、「時間の逆流」である。安田先生は「ある意味では不可能が可能になった、というような意味を持っている」と述べているが、その言い方は少し違うように思う。むしろ、初めて不可能だったと知らされることではないか。不可能が可能になるのではなく、もともと不可能だったものが不可能だと、初めて知らされたということではないか。「不可能が可能になった」という言い方だと、「不可能」という言葉の重みが消えてしまう。目を覚ませば、至る所がimpossibleだったのだ。すでにしてimpossibleの世界に生まれていたのだ。