親鸞の「なるとなり」あるいは「なるなり」という表現は面白い。それは尊号真像銘文にのみある表現だ。「称仏六字というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。即嘆仏というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。即懺悔というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるともうすなり。即発願回向というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。」(聖典p520)これは智栄という中国(宋代の僧侶)の僧侶が善導を賛嘆した文の解説だ。この親鸞の表現は何か冗長というか、まどろっこしい。すんなりと書けば、「六字をとなうるなり」とか「ほめたてまつるなり」とか「懺悔するなり」とか「往生せんとおもうなり」でいいはずだ。蛇足のように「なる」という文字が、ことごとく付されている。これは我々が、自然な表現だと感じる動詞的関心、つまり「する」という関心に不協和音を生ずる。恐らく親鸞も、自分で表現したものであっても不協和音が感じられたのではないか。しかし、最終的にはこの表現に落ち着いたのだろう。推敲をされたのか、されなかったのかは分からない。あるいは、なんの躊躇いもなく、一瞬のうちに、この表現がやってきたのかもしれない。もしそうだとして、その一瞬のひらめきを、スローで再生してみたらこんなふうになるだろう。まず、「する」という動詞的関心から出発して、やがてそれが解体され、その後にやってきたのが「なる」という世界だったのではないか。だから、「南無阿弥陀仏の六字をとなうる」という動詞的関心は、そのまま「称仏六字」の意味ではないことになる。その動詞的関心が解体されなければ、「称仏六字」の意味に合致しない。「する」が「なる」になるためには、解体がなければならない。「する」が自力的意味空間ならば、「なる」は絶対他力意味空間だ。自分は何十年と「する」に関心をもち、様々な行為をしてきた。何十年の行為の集積体が「自分」だ。その結果、自分は自分に成ったのだ。それはまだ、成りつつある出来事でもある。まだ「成った」と過去形では決して語られない何事かなのだ。